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「よう、今日の売上どうだった」
「お疲れ、白鷹くん。まぁ昨日と変わりませんよ」
店内から二人の声が聞こえてくる。俺はトイレのドアを開け放ち、汚れた雑巾を洗いながらその会話に耳を欹てた。
「チカは?」
「多分、……奥で掃除してると思いますけど」
「ふうん。大和、店のパソコン借りていいか。今月分の仕入れデータを入力したいんだけど、Gヘルのパソコン調子悪くてよ」
「構いませんよ」
白鷹の足音が近付いてくる。いっそトイレのドアを閉めて籠ってしまおうかとも思ったけど、そうするよりも早く、白鷹がスタッフルームに入ってきて目が合ってしまった。
「チカお疲れ」
「お疲れ様です……」
「寒いだろ。手真っ赤だぞ」
「……平気です」
濡れた雑巾を絞り、充分に水気を落としてから壁のフックにかける。石鹸で手を洗っていると、パソコン画面に顔を向けたまま白鷹が言った。
「大和と喧嘩でもしたん」
「え。別に……」
「お前のこと訊いたら、あいつ一瞬だけ気まずそうな顔したからよ。俺とお前がヤッたって、大和に言ったのかと思って」
「……言ってません」
「早く言っちまった方が楽になるんじゃねえの。忘れた頃にバレるってのが、一番ダメージでかいぞ」
「自分でやっておきながら、適当なこと言わないでください」
俺はタオルで乱暴に手を拭き、捲った袖を戻してから足早に白鷹の背後を通り過ぎた。
「チカ」
「……何ですか」
白鷹がスタッフルームのドアを指して、言う。
「このくらい軽く乗り越えねえと、男同士の恋愛なんかやってらんねえぜ。まして、その恋人と店を持つなんてことも無理だ。……まあ、頑張れ」
「どうも」
それが例えほんの数秒でも、白鷹とは二人きりでいたくない。そう思ってドアノブに手をかけようとした俺は、次の瞬間――呼吸が止まりかけるほどの衝撃を受けた。
「えっ……」
ドア一枚隔てた向こう側。擦りガラス越しに、大和のシルエットが見える。
俺達の会話。
大和に聞かれていた……!
「大和っ、……」
勢いよく開けたドアの先、大和がこちらを向いて立っていた。口元に弱々しい笑みを浮かべて、俺から目を逸らし、少しだけ俯きながら。
「大和、今のはっ……」
思わず大和の肩に手を伸ばしたが、俺の手が触れるよりも先に、大和が一歩後ずさった。
「大和……」
「……仕事中だろ、政迩。言い合ってる場合じゃねえって」
「………」
俺はその場から動くことができず、踵を返した大和の背中を縋るような目で見つめ続けた。
大和が俺から遠ざかって行ってしまう。触れることも、言い訳すらすることも出来ないままで――。
「あらら。怒っちゃったか」
「っ……」
能天気に言いながら、白鷹がノートパソコンからメモリーを抜く。俺は強く唇を噛んで白鷹を睨み据え、殴りかかりたい衝動を必死で抑えた。
「そんな目で見るなよ。俺だって大和がいるって気付かなかったんだから」
「嘘だ。……大和がいるって知ってたから、わざとあんなこと言ったんだろ」
「さあ」
俺は店頭のラックやワゴンを中に入れて閉店作業をしている大和の元へ行き、無言でそれを手伝った。大和も何も言わない。俺を見ようともしない。
沈黙がこんなに辛いなんて、知らなかった。
「そんじゃ、お疲れ。戸締りしっかりして帰れよ」
白鷹だけが普段通り、明るく言い放って店を出て行く。もちろんそれに対して、俺も大和も返事はしない。
俺よりもずっと、大和の方が気まずいだろう。
あんなに明るくてお喋りな大和が、今日は一言も発さずにレジ閉め作業をしている。コインケースに硬貨をしまうのも、売上日報の記入も、パソコン入力も、ずっと無言でやっている。
俺は必死に頭の中で言葉を探した。だけど結局何も言えないでいるうちに、大和が荷物を取りにスタッフルームへ引っ込んで行ってしまった。
「………」
恐る恐る、スタッフルームのドアを開ける。どちらにしろ俺の荷物もここにあるし、タイムカードだって押さなきゃならない。
大和がパソコンを操作して、自分のタイムカードを表示させる。「退出」のボタンを押して、そのままスタッフルームを出て行く。いつもと違って俺の分を押さないところを見ると、やはり怒っているらしかった。――無理もない話だ。
「大和……」
俺はパソコンの電源を落として店内の電気を消してから、店の外で煙草を吸っている大和の元へ走って行った。
「大和、その……白鷹さんの言ってたことだけど……」
とにかく少しでも疑いを晴らしたい。俺は浮気心で白鷹に抱かれたわけじゃないのだと、最低限それだけは伝えておきたかった。
「勘違いしないでほしいんだ、俺は別にっ……」
「分かってるよ。白鷹くんから強引に迫られたんだろ」
「あ……」
「でもさ、向こうから迫られたにしても。政迩に隙があったのも事実なんじゃねえの」
大和の隣を歩きながら、俺は一瞬、暗い底なしの谷へと落ちてゆく感覚に見舞われた。
正面に顔を向けたまま、大和が続ける。
「俺言ったじゃん、気を付けろって。それでもそうなったってことは、政迩が俺の忠告を軽視してたってことだろ。違うか?」
「………」
「強引に迫られたからって、いくらでも逃げようはあっただろ。そもそもなんで黙ってたんだよ。俺だけ何も知らねえで、今日まで普段通り白鷹くんとかお前と接して、馬鹿みてえじゃん。その日のうちに言えよ、そういうことは」
俯き、ポケットの中に手を入れる。
確かに大和の言う通り、隙を見せたこと自体は俺の罪だ。それは認めざるを得ない。
……だけど、どうにも腑に落ちない。
アパートに着いてから、俺は沓脱ぎに立ち尽くして自分の足元を見つめた。俺が履いているのは、この間大和と二人で休みが取れた日に遠出して買ってきた新しいブーツだ。
まだあれから大して日は経っていないのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「なんだよ。上がんねえの」
「……大和は」
さっさとスニーカーを脱いでリビングへ行こうとする大和の背中に、俺は小さく呟いた。
「なんで大和は、……俺ばっか責めるんだ」
「え?」
「白鷹さんに負い目があるから、あの人のことは責められないのか」
「……なんだよ、負い目って」
「大和だって、俺に隠し事してたくせに」
大和が振り返り、俺に尖った視線を向ける。俺は上目にその顔を見据え、見切り発車的に口を開いた。
「卒業して職の世話してもらって、このアパートだって白鷹さんに用意してもらったんだろ。だから逆らえねえんだ。あの人に今逆らったら、仕事も住む場所も一気に無くなるもんな。俺がどんな思いであの人に抱かれたかなんて、ちっとも考えてねえくせにっ……」
「政迩」
「……今の俺は、昔の大和と同じ立場じゃん」
言ってるうちに涙が溢れてきて、俺はコートの袖で目元を拭った。
「白鷹くんから、聞いたのか……」
「全部聞いた。大和がこの部屋にかかった金を、白鷹さんに返してることも聞いた」
「あの人と俺が付き合ってたことも?」
俺は頷き、言った。
「俺は昔の大和みたいに……恋人に仕事と住む場所を提供してもらってる身なんだから、余計なことしないで大人しく従ってろってことなのかよ」
「チカ」
「俺が何を考えようが、何を思って行動しようが、大和が気に入らなければ許されないってことなのかよ。俺はお前の、ただの所有物なのかよっ……?」
「政迩っ!」
突然大声で名前を呼ばれ、俺はビクリと体を震わせた。
「俺とあの人のこと知ってから……ずっと、そんな風に思ってたのか」
「………」
「……何かもう、知らないうちに色々とすれ違ってんだな、俺達」
大和のその言葉に、俺は黙って涙を拭った。後から後から零れてくる涙は塩辛く、苦い。思えばこんな風に泣いたのは、大和と付き合って以来初めてのことだった。
泣き続ける俺を見て、大和が苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「お前。俺のこと信用してるとか言って、全然してねえじゃん」
「違う、俺は」
「じゃなきゃ、そんなにセックスすんのが好きなのかよ。確かにお前、ここ最近は俺じゃ物足りねえって感じだったもんな」
「っ……」
大和にそんなことを言われるなんて全く予想していなかっただけに、今の言葉は衝撃的だった。大和自身も言い過ぎたと感じたらしく、舌打ちして頭を掻き毟っている。
「……そんなことあるわけねえじゃん」
俺は両の拳を硬く握りしめ、蚊の鳴くような声で呟いた。
「大和以外の男となんて、したいわけねえじゃん」
「………」
太い息を吐き、大和が俺に向かって手を伸ばす。大きな手にそのままグッと前髪を掴まれ、無理矢理に上を向かされた。
「そう言うならよ、政迩。今ここで、それを証明してみせろよ」
俺は赤くなった鼻を擦り、縋るような目で大和を見上げた。
この場で俺が大和の前に跪くのは簡単だ。だけど、それをしたところで何の意味があるというのか。それで大和が俺を許してくれるとは到底思えない。
どうしたら良いのか分からずに黙っていると、大和が前髪から離した手を俺の背中に回し、そのまま強く抱き寄せてきた。
「えっ……」
ぐるりと体が回転する――思った時にはもう、框の上に押し倒されていた。
「や、大和……」
仰向けになった体の上、大和が恐ろしく冷たい目で俺を見下ろしている。その目を直視しているのが怖くて、だけど視線を逸らすことができなくて、俺は唇を震わせながら、どうすることもできずに無言で大和を見つめ続けた。
「政迩。抵抗しねえの? それとも、無理矢理されるのが好きなのか」
「………」
やり切れなくて、俺は自分の腕で顔を隠した。
大和の手がベルトにかかる。
ボタンが外され、ファスナーが下ろされる。
「や、まと……」
「面倒臭せえ靴、履いてんなよ」
大和が俺のジーンズを無理矢理脱がそうとするが、ブーツが邪魔になって膝の辺りで止まってしまっている。
「別に全部脱がさなくったっていいか。……政迩、後ろ向いて四つん這いになれよ」
言われた通りにしようとして、俺は震える手を床について身を起こそうとした。だけど力が入らない。まるで別人のようになってしまった大和に対するショックが大き過ぎて、俺の体は完全に強張っていた。
「どうした。後ろ向けって」
「もう、やめ……大和」
本当は大和だって、こんなことをしたいわけじゃない。無表情を保つその瞳の裏側に、苦渋に満ちた大和の顔が透けて見えるようだ。俺の錯覚だろうか。都合の良い考えだろうか。
「大和……。頼むから、もう……」
大和にこんなことをさせたくない。お互いに傷付くだけだと分かっておきながら、ただ一時の感情のためにこの場をやり過ごすなんて、俺にはできない。
「話し合おう、大和。俺、思ってること全部お前に伝えるから。俺達四年も一緒にいるのに、腹割って話したことなんて殆どねえじゃん。今話し合わなきゃ、俺もお前もこの先ずっと後悔する。だから……」
「政迩……」
大和の目が少しだけ柔らかくなる。一瞬垣間見えたその表情は、叱られてしゅんとなった犬のような、俺の大好きな大和の顔だった。
「大和、頼むから一度――」
言いかけ、俺は口を噤んだ。
俺の上から体をどかそうとした大和の背後で、玄関のドアノブが回転するのが見えたからだ。この部屋の場所を知っている人間。俺と大和が今ここにいることを知っている人間……だとしたら、それはもう一人しかいない。
「し、白鷹……さん」
「え?」
大和が振り向いたのと同時に、玄関のドアが音もなく開いた。
「あ……」
狼のようにぎらついた目。半笑の口元。辺りは暗い闇の中、まるで満月を従えてやってきたかのような男――西野白鷹が立っている。
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