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*  霞みがかった意識の中、俺は遠い昔の夢を見た。  どしゃぶりの雨の日。十六歳の俺は放課後の下足室で、竹刀と防具の入った荷物を担いで途方に暮れていた。雨が降るのは天気予報で知っていたが、ここまで大降りになるとは思っていなかったのだ。  学校からバス停まで十分。停留所から家まで十五分。  濡れるのを覚悟して下足室を出ようとした時、背後から肩を叩かれた。 「傘、ないのか? 良かったら入ってけ」 「……あ、ありがとうございます」  それが大和との初めての会話だった。  二つ年上の大和は俺よりも背が高く、体付きも逞しく、何より誰からも好かれるほどに明るい笑顔の持ち主だった。三年生は部活に来ない生徒の方が多かったが、大和は進学しないために時間があることと、責任感が強い性格であることから必ず練習には顔を出していた。  剣道部の主将だったから顔と名前は知っていたけれど、実際に部活外で話すのはこの時が初めてだった。人見知りする俺は、緊張して碌に話すこともできなかった気がする。  俺の隣を歩く大和は、ライオンみたいな髪型をしていた。耳には幾つもピアスをしている。当時の俺は髪を染めるなんて考えたこともなかったし、耳に穴を開ける人間の神経が分からなかったから、ちらちらと物珍しげな視線を大和に送りながら雨に濡れた通学路を歩いていた。  大和はただ黙って歩くだけの俺を笑わせようと、傘を持ちながら色々な話をしてくれた。大和の制服がだいぶ濡れているのに気付いたのは、随分後になってからだった。 「九条は、なんで剣道部に入ろうと思ったんだ?」  そう訊かれた俺は、咄嗟に「かっこいいから」と答えたが、本当の理由は違っていた。  単純に、父親に勧められたからだ。内に籠る性格だった俺を鍛えるつもりで、父は俺が小学生の頃から様々なスポーツをやらせてきた。母親は更に俺の頭も鍛えなければと、日に数時間は俺を机の前に座らせた。  そんな両親を疎ましく思ったことはないし、もっと自由に遊びたいと思ったこともない。  俺には絵を描く楽しみがあったからだ。  机の前で勉強するふりをして、ノートの端にいくつも小さな絵を描いた。空手教室がある日は、練習そっちのけで人の体の動きや表情などを観察した。また別の習い事をやらされても、新たな絵の勉強ができると思えば嬉しかった。  そういう理由で、高校に上がって美術部に入るつもりだった俺に父親が「剣道をやれ」と言った時も、俺は反抗することなく頷いたんだ。高校生にもなって親に従うのは少し気が引けたが、その頃にはもう、父にも母にも逆らうことができなくなっていた。俺は反抗期を逃してしまった子供だった。  剣道なんて楽しくも何ともない。俺にとって剣道とは、ただ防具や竹刀を間近で見られることだけがメリットのスポーツだった。 「かっこいいから、か。……でもお前、あんまり楽しそうにしてないじゃん」  だから大和にそう言われた時、俺は自分の胸の奥底にあった気持ちに初めて気付いて動揺した。それと同時に、友達が多くて人気者の主将が俺なんかのことを見ていた、ということに対しても酷く驚いた。 「もしつまらないんだったら無理して出なくてもいいんだぜ。別に来るなって意地悪で言ってんじゃなくて、その……さ、俺も何て言ったらいいか分かんねえんだけど……」  後半にかけて大和の声が雨の音に負けて行く。俺は「つまらなくなんかないです」と呟いたが、その声もまた雨音にかき消されて大和の耳には届かなかった。 「何て言うか、お前は好きなことやってた方がいいんじゃないかと思って」  今度ははっきりと聞こえたその言葉に、俺は大和の顔を見上げた。 「だってお前、綺麗だからさ」 「………」  綺麗だから。  人からそう言われるのは初めてじゃない。幼い頃から大人達に容姿を褒められてきた俺は、思春期を迎える頃には、自分の顔がある程度異性を惹き付ける力があるということを理解していた。実際に中学の頃は、両手の指でも足りない数の女子の告白を受けてきた。何の問題も無ければ、その中の何人かとは間違いなく付き合っていただろうと思う。  だけど俺は誰とも付き合うことができなかった。理由は、俺が同性愛者だったから。それから、告白してきた女子達が俺の容姿しか見ていないのに気付いていたから、だ。  綺麗で、整っていて、格好良い。俺にとって何の利益も生み出さないこの顔は、やがて告白を断った女子達の間で「無表情なだけの冷たい顔」に変わっていった。下心丸出しで近付いてきたくせに。俺を自分の飾り物にしようとしていたくせに。 「せっかくそんな綺麗な顔してんだから、好きなことして笑ってる方がいいんじゃないかと思ってさ」  だけどそう言った大和の笑顔に、下心は少しも感じられなかった。その証拠に大和自身、数秒経ってから自分の発言に赤面していたほどだ。 「ご、ごめん。別に変な意味で言ったんじゃなくてよ、単純にそう思っただけだから。男のくせに気色悪いとか、警戒しないで欲しいっていうか……」  その慌てぶりが面白くて、俺は笑った。高校に上がって剣道部に入ってから、初めて人前で声をあげて笑った。  そんな俺を呆けたように見ていた大和が、恥ずかしそうに傘を回しながら訊ねてきた。 「……九条、下の名前何ていうの?」 「政迩」 「へえ、格好良い名前だな。見た目も名前も出来過ぎてて、何か腹立ってくる」  バス停に着いてから、大和が畳んだ傘を俺に差し出し、更に言った。 「次の部活の時までに、変なあだ名考えてきてやるからな」 「あの、傘……」 「持ってけよ。風邪ひいたら部活休むことになるだろ。来週も必ず来い。いいな、政迩」  さっきは自分で違う部活を進めてきたのに。その時の俺は、大和の心に芽生え始めていた気持ちに少しも気付いていなかった。  その気持ちを打ち明けられたのは、翌週の放課後、誰もいない部室でのことだ。 「出来れば……もし男でもいいって、ほんの少しでも思ってくれるなら、俺と付き合ってほしい。お前のこと、一生大事にする」  俺の目を見て大和が言ったその台詞は、今まで受けてきたどんな告白よりも強引で、かつ男らしいものだった。  俺の笑顔を見ていっぺんに惚れてしまったこと。男を好きになるのは初めてじゃないが、ここまでの気持ちになったのは初めてだということ。俺をもっと知りたいと思ったこと。俺をもっと笑わせたいと思ったこと。  一気にそれらを言われて俺はうろたえ、最後には半ば強制的に頷かせられた。それまで瀕死の猛獣のようだった大和の顔が、拾って貰えた仔犬のようにホッとした表情になったのが、今でも忘れられない。 「良かった。俺、断られたら二度と部活に顔出せねえと思ってたから」 「……大袈裟です、三浦先輩」 「大和でいいよ。その方が付き合ってるって感じするだろ」 「大和先輩」 「先輩、は要らねえって。俺ら、今この時点でもう付き合ってんだから。対等な関係でいたいじゃん。敬語も使わなくていいよ。素のお前で接してくれた方が、俺も嬉しいし」 「や、大和」  顔を真っ赤にさせてその名を呼ぶと、大和が嬉しそうに笑って言った。 「なんだ? チカ」  それは、俺達の果てしなく長い四年間が始まった瞬間だった。 *

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