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「政迩」
脚立をスタッフルームに戻しに行くと、大和がついてきて俺に言った。
「大丈夫か? なんか顔色良くないけど」
「………」
「具合悪いか? 遠慮しないで言えよ」
大和が俺の額に触れ、もう片方の手を自分の額にあてた。
「熱はないみてえだな。最近、春物の大量入荷が多くて疲れちまったか」
「大和」
「ん?」
俺は脚立を戻してから、じっと大和の足元を見つめて俯いた。自分でも何が言いたいのか分からない。何をそんなに不安がっているのか、どうして大和を疑っているのか。
何も、分からない――。
「お、おいおい。どうした」
赤くなった俺の顔を見た大和が、慌てて俺を抱きしめる。恐らく俺は泣きそうな顔になっていたんだろう。泣く気なんて少しもない。だけど大和の腕の温もりさえも以前と違う気がして、意思とは反対に涙が零れた。
「政迩。なんで泣く……」
「……分かんねえ。ちょっと具合悪いのかも」
嘘をついて大和から離れ、俺はパーカの袖で頬を拭った。
「泣くくらい辛いなら早く言えよ。今日はもう早退して、部屋で寝てろ。どうせ暇だし、白鷹くんいるから帰っても大丈夫だぞ」
「平気。少し休めば治る……」
「お前が泣いてんの見て放っておけるかよ。それとも体調の他に、何か泣きたい理由があるのか?」
「平気だってば」
「意地っ張りだな。そういうところも可愛いけど」
黙り込む俺に向かって、大和が手を伸ばした。咄嗟に身を引き、もう一度袖で涙を拭う。
「今日の政迩はご機嫌斜めか……しょうがねえなぁ」
「大和。……今日、白鷹さんとミーティング行かないでほしい」
「え?」
やっとの思いで口にした俺の言葉に、大和の顔が強張った。
「……なんで?」
「別に。そろそろ一人で飯食うの、飽きたから」
「仕事の話なんだ、行かないわけにいかねえだろ?」
それが本当の話なら素直に頷くしかない。店長同士の大事な話し合いに「寂しいから」なんて理由で口を挟んだら駄目だと、自分の台詞を反省すべきだ。
だけど今の俺には、大和の言葉が本当なのか分からない。無理を言って大和を試すことなんてしたくないのに、他の方法が思い浮かばない。
「帰ったらちゃんと構ってやるって。いつもそうしてるだろ?」
「……そういうことを言ってるんじゃない」
「急にどうしたんだよ、政迩」
「政迩って呼ぶなっ……」
大和が困ったように頭をかいて、スタッフルームのドアにちらりと視線を送った。そろそろ店内に戻らなければと思っている顔だ。
「参ったな。なんでそんなに気が立ってるのか、分からねえよ」
その時、ふいにスタッフルームのドアがノックされ、店内から白鷹の声がした。
「オー、二人共何やってんだ。大和は春休み用商品の値下げチェック、チカちゃんは着替えてパーカのポップ描いてくれや」
「ああはい、すいません。今行きます」
「っ……」
大和が踵を返して、ドアに向かおうとする。俺は伸ばした手で大和のシャツを引っ張り――その背中に、額を押し付けた。
「マサ、……チカ?」
「行くな」
「ど、どうしたんだよ」
「行くなよ。……大和、行かないで……」
大和を困らせたくない。困らせて嫌われたくない。
だけどそれ以上に、大和を失いたくない――。
「大丈夫だって。俺、いつもチカの傍にいるだろ。何を不安がってるのか知らねえけど、俺がチカを好きなのはこれからもずっと変わらねえから」
「………」
「二人で一緒に行こうぜ。なんだよ、俺がお前を置いて行くと思ってんのか?」
大和の優しい言葉が、じんわりと心の中に沁み入ってくる。
そうだ。俺は大和を失いたくないんだ。
大和が俺から離れるかも……なんて、今まで一度たりとも思ったことはない。だから今の俺は、この例えようのない不安に心底怯えているんだ。
白鷹に大和を奪われるんじゃないかと、思ってしまったから。
白鷹は俺に気があるふりをして、本当の狙いは大和だったんじゃないかと、……ほんの少しでも、想像してしまったから。
大和が誰と話していても、客や他店の女の容姿を褒めても、俺は多少不満に思うだけでちっとも嫉妬してこなかった。それがまさか、白鷹に嫉妬する日がくるなんて。
今思えば、あの台詞。
――チカちゃんは大和の大事なお姫様だもんな。
白鷹のあの台詞には、俺に対する敵意が込められていた。この前の一件の時だって、白鷹は俺の体を弄りながら大和ばかりを見ていた気がする。
白鷹は未だに大和が好きなんじゃないのか。だから、俺の存在を大和から遠ざけようとしているんじゃないのか。
俺がこんなことを考えてしまうのも、寂しさや不安から大和を困らせようとしてしまうのも、全て白鷹の計画なんじゃないのか……。
「オッ、やっぱ青も似合うな。これでTシャツも売れるだろ。ありがとうな、チカ」
「……いえ」
店内に戻った俺の頭に白鷹の手が乗り、慌てて大和が白鷹から俺を引き剥がした。
「気安く触んないでくださいって。俺達のことバレたからにはもう遠慮しませんよ」
「相変わらずつれねえなぁ、大和。じゃあお前でいいや」
「だから、尻を揉むなっての」
白鷹の大和に対するセクハラも、そういう目で見ると本気でやっているんじゃないかと勘繰ってしまう。
「………」
「どうしたチカちゃん、大和の袖引いちゃって。可愛いことしてんじゃねえよ」
「白鷹くん、そろそろチカって呼ぶのやめてくださいって。今まで黙ってたけど、そう呼んでいいのは俺だけなんですから」
「そうなのか? それは悪かったな、マサチカ」
「だ、だから気安く撫でるなってば。全く、何回言えば……」
――俺、嫌な奴だ。
大和に我儘言って気を遣わせて、もしかしたらこの不安も俺の勘違いかもしれないのに、二人を疑って。どうしてこんなに卑屈な男になってしまったんだろう。俺はいつだって大和を尻に敷いて、嫉妬する大和を軽く宥めていたはずなのに。
白鷹に対する不満を大和に打ち明けることができるなら、まだ救われる。子供みたいに喚いて、白鷹に近付くなと言えたならどんなにいいか。
それが出来ない俺は、勝手にむくれて大和を困らせるだけだ。
そんな自分が、心底嫌になる。
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