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第三章
望めば全てが手に入る。
だからなのか、何かを欲しいと思ったことなど一度もなかった。
けれど、それが自惚れだと気づいた時、モノクロだった自分の世界が突然色を鮮やかに変えた。
本当は、心の底から欲していたのだ。ブランコを揺らし始めた時から、自分にとって特別な何かを。
『これ、使って。そんなに濡れて風邪でもひいたら大変だから』
誰でも良かった訳じゃない。
困ったようにこちらを見つめる濡れたような黒い瞳と、緊張のためか微かに震える指先が、一滴の水滴となって静まりかえった心の中を音も立てずに揺さぶった。
恋だとか愛だとか、そんな陳腐な言葉なんかじゃ言い表せない気持ちの名前を何と呼べば良いのだろうか?
狂おしいほどの切望を留めることができなくて、少しずつ、自分の中の大切な何かが崩れ落ちた。間違っていると分かっていても、どうしても欲しかったのだ。
たとえばそれが中身のない、ただの容れ物だったとしても。
***
それは、聖一と付き合い初めて一年になろうとしていた梅雨のある日。それまで割と穏やかだと思っていた貴司の暮らしは、突然に変化した。
「本当に、何も知らないんですね」
平日だったその日の夜、突然貴司を訪ねて来たのは、聖一の友人というとても綺麗な少年だった。中に入れるか迷ったけれど、生徒手帳まで見せられた上に大事な話があると言われ、遠方から来てくれたことを思うと断りきれなかった。
そこで彼から告げられたのは、聖一が誰もが良く知る大企業の御曹司だということと、聖一の苗字が『阿由葉』だということ。そして、目の前にいる彼もまた、聖一と付き合っているという話。
以前聖一が連れて来た、彼の祖父だという人物が『小林』と名乗っていたから、改めて尋ねたことはなかったが、言われてみて初めて貴司は聖一について自分は何にも知らないのだと思い知った。
学校や、勉強のことを話すことはあったけれど、どこの学校へ通っているかは尋ねたことがなかったし、家庭環境については以前、『事情がある』と祖父に言われて聞き辛かったということもあり、本来無口な気質もあって、気になっていたがなかなか聞けずに時間が過ぎてしまっていた。
「貴方みたいな普通の人が、どうやって聖一に取り入ったのか知らないけど、迷惑なんです。学校ではいつも一緒にいれるからって我慢してたけど、そろそろ僕も限界なんで」
「そんなこと……俺に言われても」
正直言って困ってしまう。
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