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第17話
――桃太郎は当惑しておりました。
床を踏んでいた足は空気に触れ、空気に触れていた背は床についているのですから。
「…………」
桃太郎は口を開き、すぐに閉じます。旦那である鬼の頭領から許された言葉では、自身を押し倒すおじさんへ何も伝えられないからです。
濡れた肌に、濡れた衣服が張り付く感覚は……気持ち悪いものでした。
「三ヵ月前のことを憶えてるか?」
桃太郎は笑みを浮かべたまま、黙り込みます。沢山の島民へ暴行を繰り返した桃太郎は、その内の誰かをいちいち憶えていないからです。
「まぁ、別にいいか……」
濡れた髪に、おじさんの指が絡められます。おじさんの声からは、先程までの優しさを感じられません。
「頭領が独り占めしたくなる気持ちも分かるぜ……あの日から、ずっとずぅっと思ってた」
武骨な指が耳朶を撫でても、桃太郎は頭領の言い付けを守り、笑みを浮かべ続けました。
「可愛いなぁ……っ」
常識が分からない桃太郎でも、何となく察します。
――この状況は、非常によろしくない……と。
柔らかな頬を指で押されても、笑みは絶やしません。けれど、隙は見せませんでした。真っ直ぐにおじさんを見上げる桃太郎は、動きの一つ一つを視線で追います。
「正直、お前が頭領を想っていようがなんだろうが、知ったこっちゃねぇ」
指は頬を離れ、桃太郎の首を撫でました。
「だってそうだろう? ……頭領はお前を愛してない。だったら、俺が貰ったって文句無い筈だ」
されるがままだった桃太郎が、反応を示します。
「……そうですね」
瞳を一瞬だけ伏せ、相槌を打ち……すぐに、おじさんを見つめ返しました。
頭領とは全く違う指が、桃太郎の着物に触れます。
「頭領の家はな、毎晩毎晩賑やかだったぜ? あの日の集まりだって、本当は頭領の家でやる筈だったんだ」
『あの日の集まり』が何のことか、桃太郎はいまいち理解していませんでしたが……それでも、おじさんは続けます。
「けど、お前が来たから無しになった。頭領は島民と関わらなくなった。何でか分かるよな?」
「そうですね」
「分かってるなら話は早い」
――瞬間。
――腰に巻かれた帯が、引き抜かれました。
「お前をどうしたって、俺は咎められないだろうさ。だったら、お前に殴られた仕返しくらいしたっていいだろう?」
身じろいだ桃太郎は、おじさんを殴ろうと手を動かします。
――けれど、できませんでした。
――不意に、思い出したからです。
『暴力と殺生は禁止だッ!』
受け止めてくれるかもと期待して始めた新婚生活。それでも虚しさばかりが募るのは、とても単純な理由でした。
――こんな男にすら向けられている頭領の笑顔を、桃太郎は向けられたことが無かったからです。
桃太郎の願いは、小さくて控えめで……とても、ささやかなものでしょう。けれどどうしたって叶わないことを、桃太郎は痛感していました。
――頭領の笑顔が見たい。
――ここでおじさんを殴ったら、頭領に怒られる。
――笑顔が、遠のく。
桃太郎は笑みを浮かべたまま……両手を強く、畳へ押し付けました。
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