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さっそくジョッキの中のそれを飲み干した紀平さんは「司君、おかわり」と例の地味な黒髪のスタッフに声をかけている。 それを一瞥し、ぐっと中身を飲み干した俺は負けじと「笹山、もう一杯」と声を張り上げた。思うように舌が回らないがそんなの関係ねえ。 「原田、今なら遅くない。やめとけ、このパフェやるから考え直せ」 「あ、それ俺も食いたい」 店長の手にした生クリームもりもりのパフェ見て、紀平さんは「司君、パフェもよろしく」と続ける。酒を飲みながらよくも甘いものを食べられる、俺なら無理だ。想像しただけでも胸焼けしそうになる。 「貴様というやつは」という呆れた店長の声がやけに大きく響いた。 そして、居酒屋の従業員たちの手により次々と運び込まれる酒類につまみ、コース料理の数々。 時間も経ち、いい感じに他のスタッフたちにも酒が回ってきたようだ。俺たちがジョッキを空にする度に周りの熱気が膨らむのがわかった。 どちらが勝つか賭ける者や、マイペースに食事を楽しむ者、不安そうに睫毛震わせ仲裁に入ってくる者や「これだからアル中は嫌なんだよ」とオレンジジュースを飲む者で混沌とした個室内。 自分が飲み干したそれが何杯目かわからなくなってきた頃、ようやく紀平さんに異変が現れてきた。 「紀平さん、あの、大丈夫ですか?」 「なにが?俺普通だけど」 そういつもと変わらない笑顔で箸を箸で挟み、そのまま食べようとする紀平さん。笹山は「それ、食べれませんよ」と慌てて止めていた。その指摘に気づいたらしい、紀平さんはツボったらしいゲラゲラと笑い出す。 「あーあ、始まった。紀平さんのゲラ」 側にいた店員たちが笑いながら顔を見合わせる。どうやら紀平さんは笑い上戸のようだ。ひいひいと腹を抱える紀平さんだったが、ようやく落ち着いたと思ったら今度は「この刺身厚い」やら「店長睫毛なげえ」だとか意味のわらからない理由で爆笑し、指をさされた店長は静かに青筋を浮かばせていた。 ……どうやらこれはもう勝負は決まったようなものだな。 そう、紀平さんから手元へと視線を戻した時、俺は醤油の受け皿に麦茶を注いでいた。いやこれは手が滑っただけだ。そっと店長の皿と入れ換えておく。 そんなこんな、店長たちに見守られながらも酒を飲み進めること一時間近く経過した頃だった。 「あー、無理、もう無理。俺の負け、負けでいいよもう」 それは突然、というわけでもなかったがこくりこくりと舟を漕いでいた紀平さんは両手を上げ降参してくる。うっすらと開いた目は虚ろで、顔が赤くなっていた。見るからに酔っ払いだ。おまけに呂律も回っていない。 「じゃあちゃんと土下座してこの前のこと謝ってください」 「え〜、この間って……なんだっけ?」 「あんなことしておいて忘れたって言うんですか、あんな、あんな……激しい……」 「待て待て待て待て!!貴様ら落ち着け!原田も!お前絶対良い醒めたあと後悔するタイプだろ、怪我をする前にその口を閉じろ!!」 紀平さんに掴みかかろうとのろのりと立ち上がったところを店長に取り押さえられた。 「店長、離して下さい、俺は紀平さんと話してるんです。大切なお話を……」 「そうかそうか、わかった。しかしそういった話はシラフのとき腹を割って話し合え?」 シラフもなにも、こんなに、ちゃんと口も動いてるし頭もしっかりしている。 「俺は、酔ってなんかないですから、離して下さいっ」 そうジタバタしてると、オレンジジュースもとい四川は羽交い締めにされた人を見て笑うのだ。 「はッ、だっせえ。酔っ払いほど酔ってねえって言うのはマジなんだな」 こんにゃろ、人が優しくしてやってれば付け上がりやがって。アルコールでひたひたになった脳みそに四川の煽りはドストレートにクる。 「……うるせえ、オレンジジュースばっかり飲みやがって」 「あっ、おい待て原田……こらっ!」 店長の腕から抜け出した俺は胡座を掻く四川に詰め寄り、そしてテーブルの上に放置されたジョッキを手にする。 最早誰の飲みかけか知らねえけどもういい。この際酒ならなんでも。 「あ?なに…………」 「俺の歓迎会の席で白けた真似してんじゃねえよ、このガキ」 「おい、待て、なにし…………んんッ!」 ジョッキのビールを一気飲みし、四川の胸倉を掴んだ俺はそのまま引き攣ったやつにビールを口移しする。ぬるくなったビールは美味いとはいえないけど、目の前の豆鉄砲食らった鳩みたいな四川の顔を見ると非常に高揚した。 瞬間、周りの空気が凍り付く。 「っん、ぅ゙うッ」 目を見開いた四川はなにをされているか気付いたようだ。 顔色を変え、慌てて俺を剥がそうとしてくるやつに構わず口の中のアルコールを四川の咥内へ注ぎ込むように深く唇を押し付ける。肩を、後頭部を無茶苦茶に掴み、引き剥がされないように抵抗すればやがてやつの喉仏がごくりと上下する。こいつ、飲んだな。 受け止めきれず、唇から溢れた酒はが顎から首筋を濡らす。その時の俺には気持ち悪いなんて考える頭もなかった、あっという間に口の中は空っぽになる。 呆然と放心したように俺を見詰めてくるやつにふふん、と優越感に浸ったときだった。離れようとする俺の後頭部に回された四川の手に思いっきり寄せられ、唇を貪られる。 「ふっ、んん……っ?!」 あ、あれ。なんで、こいつ酒嫌いなんじゃなかったのか。 口の中に入ってくるぬるりとした舌に翻弄されそうになりながら、俺は四川の胸を押し返そうとするが、くそ、バカ力。それとも俺の力が入ってないだけなのか。 「待っ、ぁ、んんっ、ふ……ッ!」 上顎を舌の先っぽで乱暴になぞられれば、脳髄が蕩けそうになり既に酒のせいであやふやになっていた俺の思考は四川の熱に当てられ形を無くしかけていた。 あ、やば。やばい。これは、ガチのやつだ。 俺の稚拙なお遊びのキスとはちげー、つか、待て、周りが煩い。あ、そうだ……ここまだ居酒屋だったっけ……。 舌を絡め取られ、濃厚な酒気を孕んだ吐息に思考を取り戻しかけていたとき。 「なにをしている貴様らぁあっ!!!」 無理矢理首根っこを掴まれ引き離された。 「て、んちょ……俺は、こいつに酒の飲み方を教え……」 「わかった、わかった、わかったからもうお前は飲むな!飲んでもあんな粗暴なやつではなく俺に絡め!優しくしてやる!」 肩を掴み鬼のような形相でがくがくと揺さぶってくる店長に目が回りそうになる俺。少し離れた場所から「店長、言っている意味がわかりません」と司は適切に突っ込んでくる。しかし店長は止まらない。 「ほら、そのジョッキを渡せ。お前はもう飲むの禁止だ。ノンアルコールも駄目だ。水だけを飲め」 「いやです」 「……原田、我が儘をいうな」 「やです」 「原田」 「……」 「原田あぁ……」 ぎゅっとジョッキを抱え、店長から逃げるように顔を逸らせば店長はなんとも情けない声を上げる。 「つーか、粗暴なやつってなんだよ。そいつからけしかけてきたんだっての!この酔っ払い!」 そして俺が店長に捕まっていることをいいことに言いたい放題言ってくる四川。 「なんだとやんのかてめー」ともそもそ動けば、「おい」と慌てた店長に背後から抱き締められるように全身を拘束された。 「お前たちはあれだ、酒は飲んでも呑まれるなという言葉を知らないのか。本来酒というのはな量ではなく味を愉しむというのが大人の嗜みというものだぞ!」 睫毛に縁取られる深い色の目、薄く、形のいい店長の唇が動き、心地のよい低音が鼓膜に流れる。内容は頭に入ってこないが。 ……暖かい。つか、なんか、子守唄みたいな……。 思いながら、なにかごちゃごちゃ喋っている店長を見上げ、そのまま店長の胸元に擦り寄る。 「味わいを楽しむというのが紳士のたしなみであり…◎※%#£!!!」 そのまま目の前の首筋にかぷりと噛み付けば、演説をしていた店長はもはや言葉にならない悲鳴をあげた。 「は、原田、お前、大胆にも程があるぞ、周りのやつらがいる前でこんな…って痛い痛い痛い痛い!」 ぎちぎちと首筋に歯を食い込ませれば、蒼白になった店長に慌てて引き剥がされる。 「貴様、俺の体に傷をつけるとはなかなかやるな…!」 「店長、血めっちゃ出てますよ」 「うおっ!なんてことだ!」 慌てて手拭いを首筋に押し当てて止血する店長。 放り出された俺はしめしめとテーブルの上のジョッキに口をつけたとき、横から伸びてきた手にジョッキを取り上げられる。 「あ」とジョッキを目で追えば、そこには困ったような顔をした笹山が立っていた。 「原田さん、飲み過ぎです。それに、仲裁に入った店長に怪我を負わせるのはよくないですよ」 「……俺のビール、返せよ」 「ダメです。これ以上は体壊してしまいますよ。それと、貴方のものではないでしょう?」 「……うぅ」 怒ったような顔、それでも優しい声で諭されるとなんだか頭は働かないのに何も言えなくなる。 こうなったら、と手を伸ばし、ジョッキを取り返そうとすれば笹山はそれを持ち上げ俺の手の届かないようにした。くそ、無駄にでかいせいで届かねえ。 「さ、笹山の鬼……ちょっとくらいいいだろ……っ、ケチ……!」 「俺は原田さんのためを思って……って、ちょ、待……っ危ないですから……!」 咄嗟に笹山の腕を掴もうとしたとき、足元がぐらつく。あ、やべ、転ぶ。 そう、ぼんやりとした頭でそんなことを考えたとき、咄嗟に笹山に抱き締められるが、その代わりに大きく傾いたジョッキから溢れ出したビールが頭上から降り注ぐ。 「あっ、す、すみません!大丈夫ですかっ?!」 髪から滴り落ち肩口や首筋へと伝い落ちるぬるい液体。 濃厚になるアルコール臭。嗅ぐだけで酔が回りそうだった。ポタポタと髪から落ちるアルコールの雫に、ベタベタする体。青褪める笹山の前、そのまま俺は濡れた手のひらに唇を押し付けた。 「……うめえ」 指先から根本までべろりと舌で雫を舐め取れば、手拭いを手にした笹山はそのまま床にそれを落とす。 「あーあ、なーにやってんだよ!部屋ん中が臭くなるだろうが、くそっ」 不意に背後から聞こえてきた声。 一部始終を見ていたらしい四川は不愉快そうな顔をし、笹山が落とした手拭いを拾い上げようとしたときだった。 「あ」 四川から奪うようにその手拭いを拾い上げる笹山。訝しげな顔をする四川を無視して、俺の前までなってきた笹山は「原田さん、汚いですよ」と、俺の手を掴んだ。 そして、唇から離される。 「失礼します」 そう、笹山は濡れた俺の顔を拭ってくる笹山。優しくかかったビールの跡を拭い取られ、ひんやりと湿った手拭はあっという間俺の体温を吸い取り、熱くなる。丁寧すぎるその手付き、それも人前で子供のような扱いが耐えきれず、「もういい」と笹山の胸を押し返そうとすれば、「駄目です」とやんわりと手を握り返される。 「笹山、くすぐったい…」 「でも、このままにしてたら服に匂いが染み込んじゃいますよ」 「…ん、ぅ、……でも……」 頬から首筋、鎖骨へと徐々に降りてくる手拭いに肌を拭われる。これが、なかなかこそばゆくて、けれどなんだか笹山に逆らえなくて。 首周り、俺の体を拭っていた笹山の手が服の中に入ってきて、濡れた服の下で動く笹山の手に堪えられず「や」と笹山の胸を小さく押し返せば、やつは困ったように眉を寄せた。 「……原田さん」 「なんか、べたべたしてきた」 「だから言ったじゃないですか。脱がないと…」 そう言いかけて、笹山は口を閉じた。 そして辺りに目を向ける。 「あの、店長」 「……どうした、笹山」 「……すみません、俺、先に原田さん家に送ってきます」 なぜに。 「なに、お前、言って」 突然の笹山の言葉につい片言になってしまう俺。 しかし、笹山は俺の方を見てくれない。 帰るって、なんで俺が。 アルコール漬けになった頭は訳もわからなかったただ嫌な予感だけはしっかりした。 「これ以上酒を飲ませたら危なそうですし、それにもう夜遅いですから」 「遅いってまだ日付変わったばかりじゃないか」 「十分遅いですよ」 「なら俺が送ろう。車なら停めてある」 「店長さっき一杯飲んでましたよね」 「うぐっ」 「店長たちはゆっくり飲んでて下さい。原田さんは責任もって俺が送り届けますので」 言葉に詰まる店長とは対照的ににこりと微笑む笹山はいつもと変わらない様子で。 なんかよくわからないが、俺のいないところで話が進んでいる。 「じゃあ、お先に失礼します」 言いながら、笹山は肩を抱いてくる。そのまま個室から連れ出されそうになり、咄嗟に俺は近くの柱にしがみついた。 「やだ、まだ帰らねえ」 「駄々っ子ですか。……ほら、蝉みたいな真似なんかせず早くいきましょう」 「きゃー!笹山が襲ってくる!」 「……原田さん」 「っ、う、やだ、まだ飲む…………飲むぅう…………」 「なるほど、酔うほど原田は幼児退行するタイプか。……質が悪いな」 「やだ、帰らない、笹山一人で帰れよ!」 咄嗟に柱の影へと隠れる。 ……が、あれ?なんか、一瞬笹山の顔が見たことない顔をしたんですけど……気のせいか?これも酒のせいか? 「……原田さん」 名前を呼ばれ、ギクリとした。……怒ってる。やべえ、なんか、いつもの優しい笹山しか見てこなかった分余計怖い。慌ててあたりを見渡した俺は、咄嗟に四川の影に隠れた。 「おい、服掴むんじゃねえよ。バカ」 「お……お前でいいや、笹山を追い払え!」 「……それが人に頼む態度かよ、出直してこい」 どうやら俺の言い方が気に入らなかったようだ。 首根っこを掴まれ、無理矢理引き剥がされそうになり俺は慌てて四川の上半身にしがみついた。 「わかった、謝るから、謝るから助けて。助けてください四川様」 「俺にメリットは」 「後でオレンジジュース飲ませてやる」 「いらねえよ、バカ」 吐き捨てるような乱暴な物言いとは裏腹に愉快そうに笑う四川は俺を抱き寄せ、笹山に向かい合う。 「残念だったな。この通りこいつは俺のがいいらしい。帰るんなら一人寂しく帰れよ」 「ほんっとお前って男にはモテねえよな」とせせら笑う四川に笹山の眉が僅かに吊り上がり、一瞬四川と笹山を囲む周囲の空気が凍り付いた。 あ、あれ、なんか思ってたのと違う展開……。 「阿奈、邪魔しないでよ。あと、原田さんに絡まないで」 「絡んでねえよ。こいつの方から絡んできたんだっての」 「なら原田さんをこっちに渡せよ。その人、酒癖悪いからなにしでかすかわからないし……」 「酒癖悪いのはお前も一緒だろ」 笑う四川、その一言に笹山の額に青筋がびきりと浮かぶのを見て思わず俺は「ひぇ」と飛び上がりそうになる。 見たことにないほど険悪な雰囲気の二人。なにかを察知したらしい、店長は「原田、こっちにこい」と手招きしてくる。 俺としてもこの場から離れたかったが、四川に腰を抱き締められ逃げられない。 「酔っ払いに酔っ払いを任せたら大体ろくなこと起きねえんだよな。お前みたいに顔に出さないむっつり野郎なら、尚更」 「……俺は酔ってないんだけど?」 「酔っ払ってるやつほどそう言うんだってよ、さっき証明されただろ」 やばい、なんか知らないけどやばい。 二人の間に挟まれ、どうしたらいいのかわからず不安になった俺は笹山と四川の顔を交互に見る。 二人の視界に既に俺は入っていない。 「原田さん」 と、思いきや笹山に名前を呼ばれた。 恐る恐る顔を上げたとき、ぐいっと腕を引っ張られる。 「帰りましょう。阿奈といたらなにされるかわかりませんし」 「うるせえな、なにするかわかんねーのはお互い様だろうが!」 「一緒にしないでくれる?」 「ああ、そうだな。前からお前の方が酷かったもんなあ。遊び方も性格も物事の後始末の仕方も!」 「……は?」 「おい、二人とも止めろ。そんなんだから最近の若者はキレやすいって言われるんだぞ!紀平、おいお前もなにか……って寝るな!起きろ!肝心なときにお前は……!!」 慌てて仲裁に入る店長はテーブルの上で突っ伏し、酒瓶を枕代わりに抱き締めくーくー寝息立てる紀平さんに「なんでこんなときだけ使えないんだ!」と嘆く。店長以外、まともに二人の仲裁に入ろうとする人間はいない。 それどころか「また始まった」と言わんばかりに慣れた様子でにやにや傍観する者や構わず食事を続ける者、我関せずを貫き通す者ばかりで。 そんな中、どうすればいいのかわからずあたふたと目を回していた俺は自分の体の異変に気付く。 あ……吐きそう。 接種したアルコールが勢いよく血管を巡り、酷く全身が熱くなる。そして腹の底からどっとなにかが込み上がってきて、それは喉の近くまでなってくるのだ。唾液がじわりと滲む。額にも嫌な汗が滲んだ。 やばい。 なんか気持ち悪い。 「……二人とも、取り敢えず落ち着け。暴れるなら外でやれ、店に迷惑を掛けるんじゃないぞ、いいな」 眠りこける紀平さんの頭をぺちんと叩き立ち上がった店長はそう二人に釘を刺し、そして、その間にいた俺に気付いたようだ。 「……おい、原田。どうした?お前、顔色が…………」 そう、珍しく心配そうな店長に、啀み合ってた笹山と四川もこちらへと目を向ける。 そして、店長が言い終わるより先に俺の我慢が途切れた。 断末魔に似た自分の呻き声を聞きながら同時にその場に踞った俺。真っ青になった笹山と四川。 店員を呼ぶ店長の声。 「あーあ、やっちゃった」という諦めたような楽しげな誰かの声を聞きながら、俺の悪酔いは最高値に達したのだった。

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