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第3話

 二人が付き合い始めたのは去年の冬。葵は智紀がアルバイトをしている書店の常連客だった。さらりとした栗色の髪、真剣に書棚を見つめる視線、レジで「お願いします」という声とともに向けられる甘い笑顔――。  いわゆる一目惚れだった。まだ新人だった智紀がレジでもたついても、微笑みを浮かべて待っていてくれる。そんな優しい客は滅多にいなくて、気がつけば智紀はカウンター越しに会う葵の虜になっていた。  葵が購入する本はミステリーや恋愛ものなどが多かった。本といえば今まで漫画しか読んでこなかった智紀だが、いつの間にかバイト終わりに葵が買っていった本と同じものを買うのが習慣になっていた。  始めは活字に慣れず読み切るまで時間がかかったが、少しずつ読んでいくうちに、時を忘れてストーリーに没頭するようになっていった。葵の選ぶ本はどれも面白くて、少々ストーカーじみていることはわかっていたが、智紀の家の本棚は葵で埋め尽くされていった。  客と店員という境界を超えたのは、金木犀の香りが鼻腔をくすぐる初秋の頃だった。薄手の水色のカーディガンを羽織った葵に、勇気を出して手紙を渡したのだ。それまでも何度か言葉を交わしたことはあったが、こんな大胆な行動に出たのは初めてだ。店長にバレないように、こっそりレジで渡した手紙。内容は『初めて会った時からあなたを想っていました』という、今想うと顔面から火を噴きそうなくらい恥ずかしいことをひたすらに書き綴った記憶がある。  もう会えないかもしれない。それも承知の上だった。気持ち悪いと思われたかもしれない。書店なんてどこにでもあるのだから、もうこの店には来てくれないかもしれない。  それでも想いを伝えずにはいられなかった。  手紙を渡してからしばらく経っても、やはり葵は姿を見せなかった。辛いが、二度と会えないと分かれば諦められる。涙も出ないくらいショックだったが、智紀は普段と変わらずアルバイトに精を出していた。上がりの時間は二十二時。帰路につくため自転車に跨った智紀はふと空を見上げる。気がつけば、冬の寒さが身を刺す季節になっていた。 「綺麗な星だな……」 「うん、僕もそう思う」  突然の声に驚いて振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべる葵の姿があった。グレーのダッフルコートがよく似合っているし、相変わらず綺麗だ。でも、どうしてこんな従業員用駐輪場に葵が? 智紀は訳が分からず混乱していた。 「え……っ……? どうして……?」 「本を買う以外の目的でここに来たのは、今日が初めてじゃないよ」  それはどういう意味なのか。まさか、智紀が期待しているような理由なのか? その答えを知りたくて、葵の唇をじっと見つめる。早く言葉の続きを聞きたいような、聞きたくないような、複雑な気持ちだった。 「手紙ありがとう。すごく……すごく嬉しかった。こんなに僕のことを想ってくれる人に出会えたのは初めてだよ。……会いに来られなくて、ごめんね」  改めて手紙に書いた内容を思い出し、恥ずかしさと緊張で手が震える。葵はあの手紙の返事をくれるつもりなのだ。正直にいえば、怖くて仕方ない。一歩ずつ近づいてくる葵を前にして、智紀はまるで石のように硬直してしまった。 「君の……西条くんの気持ち、ちゃんと伝わったよ」  心臓が痛いほどに高鳴っている。微笑む葵の心が伝わってくる。細い指先が伸びてきて、そっと智紀の手に触れた。 「僕と出会ってくれてありがとう。これからも……一緒にいれたらいいな。本屋の客としてじゃなく、ちゃんとした“恋人”として」 「恋、人……」  想いが、通じた。とても信じられなかった。どうして同性を好きになったのかなんて、もうそんな些細なことは関係ない。  好きな人と気持ちが通じあった。それだけで、天にも昇る気持ちだった。 「そうだ。僕の名前、まだ言ってなかったよね。僕は雪田葵、二十六歳。君より少し、お兄さんかな?」 「あ……はい、俺、まだ二十一なんで……」 「これから飲みに行かない? 君のこと、よく知りたいから」  思いがけない嬉しい提案に智紀は何度も首を縦に振った。顔はきっと真っ赤になっているに違いない。 「じゃあ決まり。行こう、いいお店知ってるんだ」  不意に甘い香水の匂いが急接近する。手を取られ引き寄せられたと想ったら、綺麗な顔がすぐそばにあった。 「――あ、っ」 「ふふ、“恋人のしるし”だよ」  唇に触れた柔らかい感触が離れていく。  誰もいない狭い駐輪場で、ふたりは初めてキスをした。

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