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第4話

 こうして付き合い始めて、互いを名前で呼ぶようになるまで時間はかからなかった。セックスに至るまでの過程もごく自然で、心が求めるままひとつになった。何も間違えていない……はずなのに、どこかで歯車を違えてしまったと感じるのは自分だけだろうか。智紀は悶々としながら服を着替え、聞こえてくるシャワーの水音に耳を傾けた。  ホテルを後にしたふたりは、それぞれ別々の方向へと向かう。智紀は一度アパートへ戻って講義の準備をしてから大学へ。葵は勤めているベーカリーへそのまま直行するらしい。それを聞いて、さらに昨夜無理させてしまったことへの罪悪感が強まる。 (仕事があることくらい、わかってたのに……俺の馬鹿) 「じゃあ、僕はここで。また仕事終わりに連絡するね」 「あ、はい。お仕事頑張ってください!」 「そう言ってもらえると元気でるなぁ。智紀くんも、授業頑張って」  ひらひらと振られる小さな手が可愛くて、ずっと見つめていたくなる。やっぱり、この人のことが大好きだ――智紀はバッグをぎゅっと握りしめながら「――はい」と返事をした。  結局その日の講義は頭に入ってこなかった。智紀の頭の中はやはり、葵のことでいっぱいだ。机に広げたレジュメの端に、ひらがなで『あおいさん』と落書きしてしまうくらい、考えるのは葵のことばかりだった。 「なんだよ智紀、あおいって、お前のオンナ? さん付けってことは……年上かよ!?」 「るせー……ほっとけ」 「どうせ喧嘩でもしたんだろ。なら、お前の方からさっさと折れて、謝っちまえばいいんだよ。ガキじゃあるまいし、意地はってても仕方ねえって」 「……喧嘩なんて、今まで一度もしたことないよ」  智紀の顔色が悪いのを察した友人が鬱陶しいアドバイスをしてくる。喧嘩したなんて誰も、一言も言っていないのに、なぜか人はこうしてアドバイスをしたがるものだ。そんなもの、ひとかけらも求めていないというのに。 「なんか体調悪いから俺もう帰るわ。哲学のノート、あとで見せて」  まだごちゃごちゃと『喧嘩した恋人にはどう接するべきか』を説いている友人は放っておいて、智紀は立ち上がった。 (喧嘩か――そんなのできるくらいなら、こんなに悩んだりしないっての)  葵とは今まで一度も喧嘩をしたことがない。智紀はどちらかといえばおとなしい性格だし、葵に至っては怒りという感覚が欠落しているのかと思うくらい、怒っているところを見たことがない。 (メールの返事が遅れても全然気にしないみたいだし、電話に出なくても、約束の時間に遅れても、葵さんは『気にしないで』としか言わなかった)  いつも微笑んで、すべてを許してくれる。しかしそれはとても寂しいことなのではないかと智紀は思っていた。 『好きだよ、智紀くん』  ベッドの上で紡がれる睦言。それもどこか儚くて、虚ろだ。  葵の心はどこにあるのだろう。彼の言葉を信じていないわけじゃない。しかし、智紀の胸の内は不安が渦巻いていた。

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