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「ただいま」
勤務を終えた歩樹が部屋へと帰ってきたのは、午前十時を少しまわった時間だった。
「お帰りなさい、お疲れ様です」
窓を開け、ベランダに出て洗濯物を干していた貴司は、仕事の手を一旦止めて、急ぎ足でダイニングへと足を向ける。
「紅茶にしますか?」
「ああ、頼む」
夜勤明けだからこれから寝るのにコーヒーではまずいだろうと、貴司が一言声をかければ、少し疲れた顔をした彼が、「ブランデーも入れて」と上着を脱ぎながら付け加えてきた。
「少しだけ、入れますね」
それに笑顔で返事をしながら貴司は内心ホッとする。
今日の朝、いつもより遅く目覚めてすぐに、昨夜の自分の痴態の名残にサッと血の気を失った。慌ててシーツと布団カバーを洗濯機へと放り込み、自分もシャワーを浴びて出たのが三十分程前のことだ。
「昨日は、忙しかったんですか?」
「そうでもなかったんだけど、帰る直前に急患が入ってちょっとバタバタしてた」
カップを彼へと差し出しながらスルリと零れた問いかけに、ソファーへ座った歩樹がカップを受け取りながら微笑んだ。
「そういえば、貴司君の方から仕事の話聞いてくるのって初めてかも」
「あ、ごめんなさい……立ち入ったこと聞いちゃって」
昨晩のことが歩樹に知られる可能性など無に等しいのに、何だか気持ちが落ち着かなくて、必要以上に話したことを貴司は激しく後悔する。
「そうじゃなくて……嬉しかった。一緒に住んでるのに、俺に興味が全然ないのかって思ってたから」
「……そんなこと、ないです」
「なら良かった。まあ、貴司君が恥ずかしがりなの分かってるから」
恥ずかしがりとは少し違う気がしたが、曖昧な笑みを浮かべて貴司が「はい」と小さく答えると、立ち上がった歩樹がカップをテーブルの上へと置いた。
「ご馳走様。ちょっと顔色悪いけど、昨日はちゃんと眠れた?」
「え? ……あぁ、大丈夫です」
突然、至近距離へと近づいた顔に、アタフタしながら言葉を返すと、自然に伸びた歩樹の掌が貴司の額へと触れてくる。
「熱はないみたいだ。まだ万全じゃないんだから、無理しないように……な?」
「はい」
見透かされそうな気がしてしまった貴司が思わず視線を逸らすと、掌はすぐに離れていって、頭を軽く撫でられた。
「シャワー浴びてちょっと寝るから、貴司君もゆっくりしてなよ」
歩樹のほうが疲れているのに気を使わせてしまったことを、申し訳ないと思いながらも、貴司はまたも「はい」としか答えられなくて。そんな貴司に呆れた様子を見せることなく歩樹は微笑み、離れ際、今度は頬へと触れてくる。
「……」
触れられるたび体が少し強張ることに、気づかれないかと内心冷や冷やしていたが、心配は杞憂だったようで、彼は小さく息を吐きだすと貴司から離れバスルームへと消えていった。彼に触れられるのが怖いだなんて今まで一度もなかったから、昨日の出来事と相まって貴司は不安に眉をしかめる。
――もう、一ヶ月も経ったのに。
貴司は本来性欲が強い方ではなく、したいと自ら思ったことなど殆どない。
監禁時には毎日のように求めていたが、それは薬を使われた自分で、あの時は……おかしくなっていたとしか思えなかった。
――しっかりしないと。
歩樹に心配をかけない為にも自分の力で生きていくにも、過去に囚われてばかりいては、全く前には進めない。
――強くなりたい。
歩樹のように……とまではいかなくても、余裕のある立ち振る舞いに貴司はいつしか憧れていた。家族すらない自分だけれど、彼のような兄が居たらどんなにかいいだろう……と。
――駄目だ。
そんなことを考える時点で、彼を頼りにしようとしていたと気が付いて、貴司は強く唇を噛む。窓から差し込む日差しのように柔らかなこの空間に、慣れてしまってはいけないのだと、貴司は何度も自分自身に言い聞かせた。
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