「アユ、ありがとう」 　するりと口から零れた言葉に、話がピタリと止められた。 「邪魔してごめんなさい。アユのお陰で悪い夢も見なくなったから、ちゃんとお礼が言いたくて」 　今まできちんと告げたことのない気持ちを唇へと乗せれば、暫しのあいだ沈黙が続き、そのあと頭を撫でられる。 「どういたしまして」 「……？」 　答えた歩樹の声がいつもと少しだけ違うような気がして、不思議に思った貴司がそっと瞳を開いて見てみると、暗がりの中で僅かに俯く彼の姿が視界に入った。 「あ……アユ？」 　何か自分が不愉快なことをしてしまったかと不安になり、慌てた貴司が声をかけると、顔を上げた歩樹が一層強く頭を撫でてくる。 「貴司がそう言ってくれて……嬉しいよ」 　そう告げてきた歩樹の顔は、橙の灯のせいか少し色づいたように見え、いつも冷静な彼が見せている照れたような表情に、どういうわけか貴司の鼓動はドキリと大きく高鳴った。 　――参ったな。 　眠りへとついた貴司の頬にそっと指で触れながら、柄にもなく照れてしまった先刻のことを思いだす。こちらからの言葉がけには曖昧にしか答えないのに、たまに自ら話す時には驚くくらいに真っ直ぐ気持ちを口にする。最初こそ、ぼんやりしていて自分の話を聞いてないのかと思っていたが、そうではなく、頭の中では沢山のことを考えているが、それを出す術を知らないのだと徐々に感じるようになった。 　だから、時折見せる貴司の本音がこんなに胸に響くのだ……と。 　抱き締めたい。 　キスをしたい。 　ふとした瞬間心の中を支配するのは邪な感情で、それがどういうことなのかは、考えなくても分かっている。 　――俺も……焼きが回ったかな？ 　そんなつもりはなかったのに、遊び相手の殆どを切って貴司に時間を割いているなんて、弟などが知った日にはきっとかなり驚くだろう。 　見た目だけなら、彼より綺麗な男なんて幾らでもいる。だけど、恋愛はそんなに単純なものではない。 　――まあ、とりあえずは現状維持だ。 　貴司が自分を慕ってくれていることはもう分かっている。心を許していなければ、自分の前で眠るなんてことはきっと彼には無理だろうから。時が経ち、心の傷が癒えた時、貴司の一番近くにいるのが自分であればそれでいい。 　――ゆっくり……だ。 　若い時には勢い任せに事を急いた時もあるが、今は自分の律し方も適度に身についている。 　――年だな……俺も。 　辿り着いた結論に、苦い笑みを浮かべた歩樹は、貴司の頬から手を離し、ライトを一つ暗くしてからそっと部屋を後にした。