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「見せたい物がある」  穏やかな笑みを浮かべた貴司がそうこちらへ告げる声が、どこか遠くで聞こえている。  昨日……気を断った貴司の中へと自分の精を吐き出したあと、痩せてしまった身体を抱いて聖一はただ途方に暮れた。  信じたいと願う自分と、やっぱり嘘だと疑う自分。優しくしたいと思う自分と、抑え切れない強い気持ち。  ――考えたくない。  自分の心が矛盾しすぎて頭がおかしくなりそうだ。否、もう狂ってしまっているから、こんなことになったのだろう。 『笑ってるほうがいい』 以前貴司が言っていた。  それまで、心がない、人形みたいと言われ続けていた聖一に、人間らしい感情が宿った瞬間だったと思う。喜びや悲しみ、人を好きになる感情や、他人に嫉妬する気持ち……それらの全てを貴司が全て教えてくれた。  唯一大切だと思える存在なのに、求めれば求めるほど彼を深く傷付ける。やつれてしまった貴司を見れば、後悔ばかりが押し寄せて、それは聖一の心の中に一つの変化をもたらした。 『怖かった』 『傍にいたい』  思考を放棄しかけた頭は都合のいい言葉を集め、貴司を縛る方法を、無意識の内に選び取ってしまったのだ。 「セイ、開けていい?」  引き戻された現実で、横へと並ぶ貴司が自分を見上げてそう聞いてくる。笑みを浮かべて諾を告げると、貴司の顔が少し悲しげな色になったのが見て取れたが、聖一にとってそれもどこか霞がかったようだった。  部屋へと入ると、殺風景な光景の中に、幾つかの箱がきちんと並べられている。業者に頼んで引き取ってから、中を見ようともしなかった。それをしてはいけないことは聖一にだって分かっていたし、貴司自身を手に入れることに夢中になってしまっていたから。 「これかな?」  開けた箱を見て貴司が言う。何を探しているのかと問えば、はにかむような笑みを見せたが、教えてくれはしなかった。そんな姿に心の奥の辺りがズクリと小さく音を立てるが、裏を読もうとするのは止めた。  大切なのは、貴司が自分と今ここにいるという現実だ。  なのに、繋がる鎖を視界に入れれば言いようのない気持ちになる。心の中の均衡が、ちょっとしたきっかけがあれば壊れてしまいそうなことは、自分にも良く分かっていた。 「貴司」 「あった」 やっぱり見ないと言おうとしたが、同時に貴司が発した声に、聖一はその言葉を止める。 「これ……」  目の前へと差し出されたのは一冊のスケッチブック。それは、出会った当初公園で、貴司が開いていたものだった。 「それ、見たことあるよ」  これならば何度も見た。公園でも、部屋に遊びに行った時にも、ねだって貴司に見せてもらった。絵のことはまるで分からないけれど、貴司の描く風景が、聖一はとても好きだったから。 「でも、見て欲しい」  箱の前へと座った貴司がそれをこちらに差し出してくる。その瞳は真剣で……聖一は、その勢いに負ける形でスケッチブックを受け取ると、貴司の前へと腰を下ろした。 「上手く描けてないけど、それが俺の気持ちだから」  表紙に指を掛けたところで貴司がそう告げてくる。頬に朱が差しているのは、恥ずかしいからなのだろうか? 言っている意味は分からないが、聖一は一つ頷き返すと、知っている筈の絵を見るために表紙を一枚めくってみる。久しぶりに、貴司の絵を見るのも悪くないと思ったから。 「……?」  だけど、そこに描かれていたものは、想像とは全く違う代物で。  ――これは……俺?  最初のページに描いてあるのは横から見た、幼さの残る自分の顔。初めて目にする絵に驚き、顔を上げて貴司を見ると、俯いた彼の握った指が僅かに震えているのが分かる。頼りなさげなその姿に、抱き締めたい気持ちになったが、それより今はスケッチブックの続きを見たいと強く思い、聖一は指を動かした。  ――全部、俺……だ。  スケッチブックは何冊もあり、小学生の自分に始まり今に近い自分まで……鉛筆書きのものもあれば、色を纏ったものもある。そのひとつひとつから溢れ出してくる彼の温かい感情が、聖一の中に流れ込み……気づけば息も忘れるくらいにのめり込んで見入っていた。 「これ……」 「勝手に描いてごめん。公園でセイを初めて見て、どうしても描きたくなって……仲良くなっても恥ずかしくて言い出せなかった。見せるつもり無かったけど、俺がずっとセイを見てたってこと、少しでも信じて貰えたらって、そう思って」 「俺、こんな顔……」  ――したこと、ない。  ポタリと雫が紙へと落ちる。  最後のページに描かれている明るく笑う自分の顔は、言葉を繋げられないうちに、滲んで見えなくなってしまった。

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