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番外編1
*本編終了から数年後のお話です*
『小林、頼みがあります』
普通に育った人間なら、おかしなところは何もないその一言が……彼にとって大きな変化を示す何かだと感じたから、その時これから起こる全てを黙って見守る覚悟を決めた。
この仕事を最後にしようと心に決めて引き受けてから、五年の月日が経って初めて、主 となった少年の……人間らしい感情が垣間見えたから。
醒夏
“出過ぎず、主の利益を第一に考えよ”
とは、長く続けた執事の仕事で常に自分に言い聞かせて来た矜持 であり信念だ。
拾ってくれた先代を慕い、寡黙で従順である事が何より大切と思っていたが、そうもいかない出来事が起こり、結果……人として正しいと思う方の道を選び取った。
それが、現在の主である阿由葉聖一と、使用人である小林修次を結び付ける契機となり、その関係は十年以上が経った今も続いている。
「そう、今月一杯で契約を切られるんだ」
「はい。長い間、お世話になりました」
深々と頭を下げ、小林は目前の主に短く感謝の意を述べる。
執務用の椅子へと座り、机上の書類から視線を上げた眉目秀麗な青年は、幼い頃から仕え続けてかれこれ十五年の間、成長を見守ってきた、まだ若いが主と呼ぶのにふさわしい人物だ。
「その後のことは決まってるの?」
「いえ、特には……ただ、私ももう世間で言う定年の年齢ですので、少しのんびりすればいいと正義 様はおっしゃっていました」
正義は主である聖一の異母兄だが、年齢的には二十才以上聖一よりも年上だ。
現在は、阿由葉家の持つグループ企業の全てを統べる総帥の地位にある。
小林自身の雇用形態は正社員の扱いで、総帥である正義付という契約になっているから、彼に退職を言い渡されれば断る権利も理由も無かった。
「そう……分かった」
いつも通り表情の見えない整い過ぎたその顔が、少し寂しげに歪んだように見えたのは……ただの勘違いだろうか?
(私も、年を取ったな)
ここで感傷に浸るようでは側近として失格だ……と思いながらも、こうなってみると最後の主は思い入れがかなり深い。
出会った頃は子供だったが、人形のように整った顔はまるで固まってしまったように、表情が出なくなっていた。
(でも……そうなるのも、仕方が無かった)
生まれた時、同時に母を亡くしてしまった聖一は、幼い頃から父親による性的虐待を受けていて……間違いなく、それが原因の一つだと言えるだろう。
当時小林は四十代で、恩義のある前総帥の息子が犯した過ちを……告発する勇気を持つのに随分時間が掛かってしまった。
(もっと早く、助けて差し上げられたのに……)
今も時折後悔の念に苛まれる。
証拠を録り、彼の兄達の元へと持参した事は、使用人という立場からは逸脱していたかもしれないが、間違えてはいなかったと自信を持って今なら言える。
「今日はこれから会食ですが、予定に変更はございませんか?」
「ああ、行くよ。貴司も残業って言ってたし、今日のはそこそこ大事だからね」
「貴司様に……いえ、何でもありません」
「いいよ言って。小林も最近随分と人間らしくなったよね」
クスリと口を綻ばせる聖一の姿を見ながら、その言葉をそのまま返してしまいたいと思ったが、そこは言葉をきちんと飲み込みまた深々と頭を下げた。
「では、言わせて頂きますが、貴司様には何もお話にならないのでしょうか?」
「ああ……どうだろう。そのうち……ね。小林は面白いな。俺と貴司の心配までしてくれるなんて」
続く言葉は鳴り響いた電話によってかき消される。
聖一個人の携帯だから、自分が取り次ぐ物ではないと判断し、小林は一礼してから彼の個室を後にした。
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