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『父には病院に入って貰った。今後グループの総指揮は私が執り、正晴(まさはる)には手助けをして貰うことになる』  悩んだ末、小林が聖一の父を密告してから一ヶ月ほどが経った頃、呼ばれた本社の会長室で、まだ二十代後半だった正義(まさよし)から告げられた。  正晴とは、正義の年子の弟だ。 『お前には感謝している。父は心の病だった』  凜とした男らしい容姿をしている青年は、事業を次々危機に追い込み病的なまでに聖一の母を溺愛していた父よりも……祖父の方に良く似ている。 『聖一は、どうしている?』 『私の見たところ、表情はあまりありませんが、普通に過ごしています』 『そうか。小林、お前に頼みがある。成人するまでの間、聖一付きになってはもらえないだろうか?』  仕事上での異動であれば拒否権は無いと思っていたから、そんな聞き方をされることに内心とても驚いた。 『これからどうしたいのかは本人の希望を聞くが、一緒に暮らすにせよ、俺逹はほとんど彼に構えない。だからこそ、信用に値する人物にしか任せたくはない。半分しか血は繋がっていないが、兄弟だからな。お前は実力もあるし口も堅い。子守が嫌だと言うなら、それなりの役職を与えて私付きにしたいと思う。だが、出来ればお願いしたい』  あろうことか頭を下げた正義の姿に驚愕したが、それを顔に出すような真似は一切せず、小林はこれも運命なのだと心を決めて口を開いた。 『分かりました。微力を尽くさせて頂きます』  この時、これが最後の仕事になると小林は思っていた。  聖一が成人するころ自分は六十歳になる。途中何事も起こらなければ、彼の成人と共に退職となるだろう。 『今日からお世話させて頂きます。小林と申します』  最初聖一と対面した時、頭を下げてそう伝えると、『知ってます。父の執事の人でしたよね』無表情な聖一からはそんな答えが返ってきた。 『これからは僕の世話をしてくださるんですか?』 『はい、聖一様の専属になります』 『そうですか。分かりました』  何の感慨も無い声音と整い過ぎたその容貌に、まだほんの子供だというのに小林は気圧され――。 (彼ほど、人の心を奪う人間は、きっとそうはいないだろう)  それからの五年間、兄逹と離れ暮らすと決めた聖一の傍にいて、何事にも興味を示さず、何があってもニコリともしない少年に……使用人という立場を守ってただ黙々と小林は仕えた。  聖一は良く出来た子供で、学校に行くようになると、その特異さはすぐに際立ち一斉に注目を浴びた。  受けたIQテストではかなり高い数値が出たらしく、家柄や彼の容姿などから、周りはこぞって神童だの、王子などとまくし立てたがそれを喜ぶ様子もない。  友達を作る事もせず、協調性や感情がかなり欠如していると思いもしたが、彼の兄には報告せずに見守る事に徹底した。  なんの感情も無い人間などきっと何処にもいやしない。幼い(あるじ)の成長を、もう少しだけ見てからでも判断は遅くはない。  そう……考えたから。 「小林、俺をホテルに送ったら、その足で貴司の会社に行って、最上階に連れて来ておいて」 「は、はい」 「部屋は取ってあるから……これは鍵。それが終わったら今日はもう帰っていいよ」 「はい、かしこまりました」  辞職が決まったせいだろうか?  無意識の内に過去に思いを馳せてしまった小林だが、部屋から出て来た聖一に声をかけられハッと我に返る。 「小林がぼんやりするなんて、珍しいね」 「申し訳ございません」  ここ数年……見違えるほどに口数が増えた主人へと、小さく頭を下げ答えると、口元に笑みを浮かべた彼は、それ以上何も喋ることなく小林の前を歩き始めた。  数歩後ろに続いて歩く。  まるで当たり前のことのように、ずっと続いている光景。  それが終焉を迎えることが、こんなにも胸を締め付けるとは想像もしていなかったから、小林自身が一番自分の心の動きに戸惑っていた。

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