8 / 37

第8話

「オイ!たかがシャワー浴びるのにいつまでかかってるんだ!」 男は怒鳴りながら浴室のドアを開けた。ところがその狭い場所に、さっき買った黒ネコの姿はない。 「なんだ!?隠れてるのか!?」 だが隠れられるスペースなどなかった――見回すと、天井近くにある通気孔にはめ込まれているはずの金網が、外されて床に落ちている。ネコは裸のままでここから逃げたらしい――男はニヤりと笑い、唇を舐めた。 「オニゴッコかよ――仕方ねえなあ」 バスローブを羽織って男は船室から出た。四等船室の通気ダクトは壁に埋め込まれてはおらずむき出しなため、簡単にルートを辿ることができる。天井近くを這うそれを目で伝いながら男は廊下を歩いた。 「全く……躾のなってないネコちゃんだ。俺が厳しく教え込んでやらねえと駄目みたいだなあ……」 ダクトは廊下の先で上へと折れ曲がっていた。この垂直の管の中を上がるのはネコでも難しいだろう。男はその手前にある娯楽室と書かれた札が下がっている部屋の扉を開けた。 深夜で室内に殆ど人はいない。壁に目をやると案の定――さっきのネコが通気孔の金網を外し、穴から這い出ようとしている所だった。男は大股にそこへ近づいた。 直線コースで歩いた男は、途中で床に花札を広げていた戦闘服姿の人造兵連中の真ん中を突っ切った。 「ちょ、ちょっと!?」 札を蹴散らされ、兵士の一人が声を上げた。だが男は意に介さなかった。人間は、軍人ではなく一般人であっても人造兵より上位に位置づけられている。敵側でない限り人間に兵士が危害を加えるのは軍規でも厳しく禁じられているはずで、もしそんな事があればその人造兵は処罰として解体処分に回される。そのため彼らが自分に手出しをする事は有り得ないからだった。 ネコは男に気づくと、怯えた顔をし再び通気孔へと引っ込もうとしている。男は素早く腕を伸ばし、尖った片耳の根元と共にネコの髪を思い切り掴むと、無理やり孔から引き出した。軽い身体は殆ど抵抗なく簡単に引っ張り出され、ネコは悲鳴を上げた。 目の前に吊るすようにしたネコの、怯えきって血の気の引いた顔を眺めながら、男は囁いた。 「職場放棄はいけねえな、ネコちゃんよ……たっぷりこらしめてやらないとなあ」 「やめ……許してくださ……」 搾り出すような小声でネコが言った。両目から涙が溢れ、身体は小刻みに震えている。ネコと言っても、突き出した耳と尻尾がある以外は人と同じ姿なのだが、その様子は小動物そのものだった。 「ちょっと……ちょっと旦那!何やってんですか、放してやんなさいよ」 背後から声がした。男が振り返るとそこには、自分より頭一つ分背の高い兵士が立っている。筋肉質のがっしりとした体躯を間近で認めて男は一瞬怯んだが、すぐに気を取り直した。 「あんたには関係ないだろ!こいつは俺が買ったんだ」 「それはともかく、下ろしてやってくださいよ。そんな乱暴な吊るし方してたら可哀想だ」 兵士は片手の指先を男の腕に添え、軽く押し下げるようにした――その力が恐ろしいほど強かったので、男は驚き思わず掴んでいたネコの髪を離した。床に落とされたネコは、顔をこわばらせ、そのままぺったりと座り込んでいる。 「ああ、ほら――痛かったろ……大丈夫か?」 慰めるように言って屈んだ兵士の胸に、ネコは飛び込むようにしてしがみついた。 「ありゃ、おっとっと」 兵士は呟き、自分の腕の中で身体を震わせるネコをそっと抱えてやっている。 「おい――余計なことするなよ。知ってんだぞ、あんたら、軍規で人には手が出せないって決まってるんだろう?」 できる限りドスをきかせた声を出した男に、別の兵士が言った。 「手なんか出してないでしょう……ウチの班長はちょっと特殊でさ、弱いものいじめが嫌いなだけっすよ」 「弱いものいじめだと?」 「いじめてたでしょ、そのちっこいのを――俺は別にそんなのどうでもいいんだけど、他の件でちょっと言いたい事があるんすよね……」 話しながらその兵士は立ち上がった。彼はネコを抱えた兵士より多少体格は細いようだが、表情が穏やかな先の兵士に比べると、顔付きがきつく、喧嘩っ早そうな印象を受ける。 「旦那が場を蹴散らしてくれちゃったおかげで、俺が勝ってた勝負が台無しになっちまったもんでね」 兵士は手の平を組み合わせ、指関節をぱきりと鳴らした。それを見て男は腰が引けた。 「でも、軍規が――」 「我々は今本隊から離れて別行動中なので……」 床に胡坐をかいて座っていた小柄な兵士が、散らばっている花札を集めながら言った。ネコを抱いた兵士を顎で指し示す。 「そこの男が班長で、現在は彼に権限があるのです。彼が認めれば、軍規違反にはなりません」 「――だ、そうで」 指を鳴らしていた兵士が身構える――今にも飛び掛ってきそうだ。男は仕方なく叫んだ。 「わかった、わかったよ!――おい、黒ネコ!この場は勘弁してやるけど――料金は払わないからな!」

ともだちにシェアしよう!