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第29話

ダクトの中でノアは激しく咳き込んだ――あたりにはおかしな臭いが立ちこめ、涙が止まらない。なんだろうこれ? やがて頭が酷く痛みはじめた。息が苦しい――だがそれをこらえ、ノアは必死で這い進んだ。 ここからはいくつかの二等船室脇を通らなければならない――明かりが差し込む通気孔に近づいたとき、そこから顔を出してまともな空気を吸い込みたい衝動に駆られたが、船室に人の気配がある――身体をなるべく暗いほうへ寄せ、音を立てないように気をつけて通り過ぎた。もし誰かに見つかれば、ここまで来たのに機械室に辿り着けなくなってしまう。 天城さんが……みんなが待ってる――ノアはそう思いながら、息を詰め、懸命に咳を抑えて這い進み続けた。 通気孔を数えながら進む――一、二、三――あと一つ。 途中で目が痛くてあけていられなくなり、ノアは手探りで這った。四つ目の孔に辿り着き、金網に指をかけ、揺さぶって外す。良かった、中には誰もいない――近くのパイプに掴まって孔から這い出ようとした時、激しい眩暈がしてノアは床に落ちた。 右肩を打ちつけてしまい腕が痺れる。ノアは左腕で操作機器に縋り、身体を引き起こした。 胸が痛い――咳が出始めて止まらなくなり、うまく息が吸い込めなくなった。気が遠くなりかかる――駄目だ、まだ――まだ倒れちゃいけない。 痛む目を無理やりこじ開け、ノアは舌を出して喘ぎながら操作盤にしがみつき、額をすりつけるようにして取り付けられているプレートの表示を端から読んだ。音羽が言っていた、隔壁操作、の文字を探す。 隔壁――!これだ!あったよ音羽さん!ノアは頭の中で叫び、レバーに手をかけた。 「――着いた」 閉じている防火壁の前でPCの画面を見つめていた音羽は呟いた。 ノアはガスを吸いながらも――あきらめず、じりじりと進んで機械室へ辿り着いたのだ。やがてノアの位置を示す印が、機械室の、ある一角でぴたりと止まった。それを確認すると同時に音羽はキーボードを操作し始めた。 ノアが掴んでいるレバー脇のキーパッドが激しく点滅し出し、取り付けられている赤いランプが、カチッと小さな音を立てて緑色になった。それを認め、ノアは痛む腕に満身の力を込めてレバーを引き下げた。パネルに自動、と表示されていた文字が、手動へと切り替わる。 「ノア……」 天城が呟いた時、音羽が叫んだ。 「手動になったぞ!今のうちになんとかこじ開けろ!」 「うおぉ!」 叫んで天城は隔壁の継ぎ目に手をかけ、力の限りに持ち上げた。相模がわずかに出来た隙間に素早く指を突っ込み、さらに引き上げる。音羽もPCを放り出して作業に加わった。やがて周囲の船室から、音に気づいた乗客たちが出てきて三人を手伝い始めた。 重い鉄壁が動き、下に人が潜れるほどの隙間が開く。天城がそこへ、用意しておいた船内備品の金属ケースを挟み込み、閉じられないようにした。 音羽がPCを取り上げて抱え、隙間を潜り抜ける。天城と相模も後に続いた。 手伝っていた乗客の一人が、隙間から覗いて兵達に訊いた。 「おい、あんたら、どうする気だ?」 音羽は振り返ると 「船長に、今の航路を変えるよう交渉しに行くのです」 と答えた。 「あなた方は来ない方がいい。交渉が成立しなかったら、どういう扱いを受けるかわからないから」 音羽はそう伝えたが、集まった乗客らは兵たちに続いて隔壁を潜り抜け始めた。中の一人が言う。 「一緒に行くよ――ここにいたってどうなるかわからないもんな」 歩き出した音羽が天城に言った。 「班長はノアの所へ行け。こちらは我々がなんとかする」 「――頼む」 天城は答え、操舵室を目指す彼らから離れると、サブ機械室へ向かって走り始めた。 音羽たちはまっすぐ操舵室へ乗り込んだ。そこに着くまでの間には銃を携えた警備員達もいたのだが、人々の先頭にいるのが武装した人造兵だとわかると無理に止めようとはしなかった。 操舵室に足を踏み入れた音羽は辺りを見回して訊ねた。 「船長にお話が――どちらにおられますか?」 白い制服を着た年配の男性が進み出る。 「私が船長だ――君は四等に乗っていた軍人だね。人造兵が他の乗客を煽って武装蜂起とは嘆かわしい。ただではすまされないよ――よく考えたまえ。この船には政府関係者も乗っている」 「武装蜂起などではありません」 そうとしか見えない姿で音羽が否定した。 「このデータを見ていただきたい。今船内で出ている疫病発生の情報は、誤報の可能性が高いのです――」 天城は鍵がかけられていた機械室の扉を殆ど体当たりするような状態で開け、薄暗い中に飛び込んだ。 「ノア!どこだ!?」 見回すと、操作機器の前の床に小さな灰色のかたまりがあった――ノアだった。 「ノアっ!」 天城は叫んで彼に駆け寄り、抱き起こした。ノアはぐったりとし、目を閉じたまま反応しない――呼吸が止まっている。 「くそっ……!」 ノアを仰向けに寝かせ、人工呼吸を試みた。抱え込むようにして口から息を吹き込む。 必死に人工呼吸を繰り返すうち、ノアの片耳がぴくりと動いた――良かった、意識が戻った、と天城が思った途端、ノアは激しく咳き込んだ。 「ノア!」 ノアがうっすらと目を開ける。その目は、ガスの影響だろう、真っ赤に充血していた――ノアは血の気の引いた唇をかすかに動かし、何か言おうとしたようだったが、声は出ず、また咳き込み始めた。 「しゃべっちゃ駄目だ――大丈夫、もう大丈夫だから。よくやった――ほんとによくやってくれた――」 天城はノアの身体をしっかりと抱え、ゆっくり立ち上がった。

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