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第2話ー4
オーディション出身のアーティストは短期で消えていく者が多い中、事務所が積極的に売り出してくれたこともあり、BONDSの人気は上々で、全ては順調に見えた。外から見れば多分、順調すぎるほど順調だった。
ー……お前、誰の曲を書いてるわけ?
平木が持ち込んだデモを聞き終えたテツが、困惑した声音でそう言ったのは、デビューしてから半年後の冬。
ーデビュー後に出した新曲3曲は全部おれの曲。今はインディーズ曲を焼き直してやれてるからいいけど、トーヤの書く曲はおれには書けないし、トーヤの曲がないとBONDSじゃないと思ってる。……曲調はいいよ。いつも通り。書けてない訳じゃない。けど……このキーはお前のキーじゃない
誰が歌うための歌を書いてんの、お前。
ざわりと、肌が泡立つ心地がした。助けを求めてマルを見ても、そこにあるのはやはり困惑した視線一つで、無意識の自分を暴かれた抜き身の恐怖は鞘を失い、平木の内を、その鋭利な切っ先で切りつけた。キーが高い。分かっている。自分には歌えない。そんなことは、分かっている。といって、キー下げして歌える曲でもない。サビの盛り上がりが高音ありきだからだ。そのせいで、デビュー以降に平木が書いた曲は一つも歌えていない。
曲を書く間、一つの声が脳内に響く。半年前、テレビの画面越しに聴いた少年の歌声。その歌声が曲を作る。平木はそれに抗えない。唯一無二の歌声。どんな努力の先にも持ち得ない唯一無二を、生まれながらに持っている少年。意識せずとも追いかけてしまう。声に導かれて生まれる音楽は、だからどれも、浜崎茉莉に歌われる為の曲だった。
あの声に勝てる気がしないと、平木は言った。テツもマルも、最年少ファイナリストの浜崎のことは覚えていたが、その歌が特別記憶に残ることはなかったようで、平木の言葉を聞いて聞き直した上で下した評価は“綺麗な子供の声”だった。
ー子供だから出てる声って感じ。歌い方だって、別にすごい練習してる感じでもないじゃん
お母さんが先生ってのも納得、というマルの言葉にテツも同意し、マルの後を引き取って続けた。
ー誰がどう聞いたって、トーヤの歌の方がすげぇって思うよ。実際、この時勝ったのはおれらだし
浜崎は奨励賞にも入らなかった。順当な評価だと思うけど、とテツは言い、トーヤが何にこだわってんのかが分かんないと肩を竦めた。
万人共通の感覚でないなら、これは多分、理屈を超えた共鳴だった。自分が欲しくても欲しくても持ち得なかったもの、これから先も永久に持ち得ないものを持った相手に出会ってしまった。そういう不幸。子供の声だと言われてしまえば、その通りだと答えるしかない。未だ定まらない、少年特有の揺れを持った甘やかな細い声。子猫が母親を呼ぶ鳴き声に似た、可愛らしく透明な声。あの時点ではまだ、そうだった。それを否定する気はない。それは、平木にも分かっていた。ただ自分がこの二人と違うのは、あの子供がこれから先もずっと、唯一無二の声を持ち続けるのだという確信を持っているという事だった。訓練される前の歌声は確かに、平木よりも劣っていたかもしれない。あの時点では、負ける気はしなかった。ただ、5年後はどうだろう。10年後は?浜崎が歌に本気を向けたとき、自分は、彼に勝てるだろうか。浜崎が音楽を奏でたとき、ミューズの微笑みが見えた気がした。誰に同意されなくとも、平木はその歌声に否応なく惹かれ、抗えない。知らないままなら良かったと、そう思う。あの声を知らずにいれば、俺は今も、戦い続けていられたのに。手も足も出ない圧倒的な力の前には誰も、諦めを知るより他はない。心の奥深くで、囁きが聞こえる。お前は、あの声に、一生かかっても敵わない。その声は平木の心に深く根を張り、事実も理屈も仲間の声も、その根を引き抜くことは出来なかった。
それでもなんとか、2年は耐えた。頭の中の歌声を無視して曲を書き、胸の囁きに抗ってステージに立つ。スポットライトを浴びると、足が震えるようになった。それでもまだ歌えた。マイクを握ると、不思議と声は出た。ライブの前日は、酒を飲まないと眠れないようになった。それでもまだ、歌えた。声の伸びの悪さは、歌い方でカバーした。テツもマルも、無理をすることはないんじゃないのかと言ってくれてはいたが、3人で叶えた夢を、こんなことで終わりにはしたくなかった。
ー今日はよろしくお願いします
女性記者がにこりと笑いながら言い、平木たちも笑顔でお願いしますと応じた。平木の荒んだ内実には構わず、BONDSは今やすっかり人気バンドで、雑誌インタビューやテレビ出演などは日常となっていた。この日は、新曲発表に合わせた音楽誌のインタビュー取材を受けており、演じすぎて慣れ切った表向きの顔をした平木は、一分の隙もなく、売れっ子ヴォーカリストのトーヤだった。
ー……BONDSの皆さんは、間もなくデビュー二周年を迎えられますね
予定していた時間も残り僅かとなったとき、記者の女性が最後にと口を開き、そうなんですとマルが嬉しげに応じた。
ー再来月二周年で、ほんと、ありがたいですよね
2周年に合わせてアルバムの準備もしていると、マルは昨日解禁になった情報をにこやかに口にした。
ー応援してくれる人たちのおかげでここまで来られました。なんかすごい、感慨深いですね
テツもそつなく答え、記者の視線が平木を向く。
ー……平木さんにとって、この2年ってどんなものでしたか?
ふと、考える。どんなものだったか。充実した、楽しい、達成感に満ちた、ファンに支えられた、夢のような。模範解答はいくらでも浮かんだ。
ー……私、二年前の平木さんの一言がすごく印象的で
どの答えが正解か、ええとと間を開けて考えていた時、彼女はペンをテーブルに置いて、ふふふと笑った。
ー好きだからって、おっしゃってましたよね?好きだから、ずっと歌いたいから、プロになりたいって
その夢が叶って、2年ですねと、彼女は言った。夢が叶って2年。あなたの2年はどんなものでしたか。変わらない気持ちで、今も、歌っていますか。
他意などなかった。ただ、平木の言葉を覚えていてくれていて、だから、そう訊いたのだと思う。でもその瞬間、つい先ほどいくつも浮かべた模範解答は全部、どこかへ消えてなくなり、平木は突然、BONDSのトーヤを見失った。
ざあっと、窓の外を強い風が吹き過ぎ、彼女の背後の窓から見える道端の街路樹が、揃って大きく身を震わせた。夏というにはまだ弱い6月の日差しが、通りを歩く人々の上に燦々と降り注いでいる。綺麗だと、平木は思った。
ー……好きじゃ…ないです
ぽろりと、言葉が零れた。歌はもう、好きじゃない。そうして口にしてみて、平木は初めて気付いた。ああ、そうか。自分はもう、歌うことが好きだという気持ちすら失くしてしまったのか。いつからか、なぜ歌っているのか自分でも分からなくなっていた。歌いたい言葉も、歌いたいという気持ちも、何もない。空っぽ。がらんどうだ。俺の中には空洞しかない。ミューズは死んだと、そう思った。
平木が呆然としている間に、そのインタビューは多分、テツとマルとマネージャーがなんとかしてくれていて、気が付いた時には車の中だった。ふと我に返ると、今日の朝までは頭の中で煩いくらいに鳴り響いていた歌声も、この二年の間途切れることなく心を騒がせていた”敵わない”という言葉一つも、今は凍った湖面のように静まり返って何も聞こえず、平木はそれに驚き、そうすると今度は、悲しいとも嬉しいとも感じていないはずなのに、両目からは雪解けの湧水のように滴が溢れて止まらなくなり、なぜか涙声のマルが、もういいよと呟きながら平木の肩に触れた。もういいよ。トーヤはさ、良くやったよ。
ごめんと、平木は呟いた。俺の夢に、巻き込んでごめん。俺の勝手で、終わらせてごめん。色々な思いをごめんの一言に詰め込んで告げ、マルはありがとうと応じ、テツは黙って平木の頭を腕で抱えた。そこから一晩、理由のない涙は止まることなく流れ続け、心配だからと平木の家に泊まったテツもマルも睡魔に勝てずにソファで頭を垂れて動かなくなった午前4時。驚くほど唐突にその涙が止まった時、ゆっくりと白み始めた空を見つめながら平木は、自分の内にあった何がしかの泉が一つ枯れたのを知り、枯れた泉の周りに広がる荒涼とした砂漠を夢想し、俺は今、酷く渇いていると、そう思った。
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