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第3話-3

 手詰まりの現状をどうしたらいいのかわからず、浜崎は取り敢えず、机上に投げ出された譜面を一つ、手に取った。五線譜に手書きの音符が書き込まれた、少し古びた譜面。平木は手書きで曲を書くのかと、そんなことを思う。頭の中で、音を鳴らしてみる。メロディーラインの音運びが彼らしいと思う。書かれた歌詞は、BONDSっぽくはないかもしれない。トーヤなら、もう少し攻撃的な歌詞を歌う、気がする。この曲の歌詞は、BONDSに比べるとずっと素直な感じがする。ああ、でも。でも、と浜崎は知らず口元を綻ばせた。ここには、この曲の中には、あの日の平木がちゃんといる。  歌ってみたいと、そう思った。  すうっと息を吸い込み、一つ、声を出す。譜面と歌詞を目で追いながら、ゆったりとしたペースで歌いだす。伴奏はない。声だけが走る。平木の曲だと、そう思った。平木桃矢が、俺のために作った曲。じわりと、胸が熱くなる。構成はシンプル。Aメロ、Bメロ。音の高鳴りと胸の鼓動がリンクする。嬉しくて、息がつまりそうだと思う。呼吸が苦しい。でも、やめたくない。歌い続けたいと、体の中から声がする。音に、言葉に、平木桃矢の欠片がちりばめられていて、歌うたび、息継ぎのたびに、キラキラした欠片が体の中に入り込んでくるようで、その華やぎに眩暈がする。盛り上がりに向かう1小節。歌詞はない。頭の中で音を鳴らし、サビ。音程が突然高くなり、無意識に声量が上がる。声の調子は上々。気持よく声の出るギリギリのところ。ギリギリのところが、気持よくキマっている。平木の曲だ。ドキドキが止まらない。最高の気分だった。  サビを歌い終えて楽譜から目を上げ、そうしてようやく、ここが建物のロビーだったことに思い至り、浜崎は少し慌てた。気が付けば、先ほどまで二人きりだった空間には通りすがりで足を止めたらしいIDを下げたスタッフ数名の姿があり、浜崎は急激な羞恥に襲われ顔を俯けて赤面し、うるさくしてすみませんと小声で謝った。すると、視線を上げられない浜崎に、控えめな拍手がいくつかと素敵でしたよという女性の声一つが贈られ、その後には、立ち止まっていた人々が三々五々散っていく足音が続いた。一挙にしんとした空間で、平木は黙り込んだまま何も言わず、居た堪れない数秒の後、きっと呆れられたと思いつつ、そろりと顔を上げた、その時。  初めて、かちりと視線が噛み合い、浜崎は息を呑んだ。無機質なガラス玉の瞳はそこにはなく、睨めつけるような視線の強さに、圧倒される。今日、顔を合わせてから初めて、平木の感情がぞろりと動いたのが見えた。ほんのわずかな動きだった。表情はほとんど動かない。ただ、じっとこちらを見る視線の、奥。その瞳の中で、蠢くものがある。浜崎の全神経が平木に向く。五感の全てと、第六感。平木の体から放出される何かが、まっすぐに自分に向かってくる、感覚。前向きな感情ではない、が、あまりにも強い、執念。執念、と浜崎は胸の内にひとりごちた。優しさとか、愛着とか。そういう甘さは欠片もない。刺すような視線の中にあるのは、怒りとか、憎しみとか。それに近い何か。推測。推測でしかない。ただ、今。この瞬間。平木の全てが浜崎に向いていた。憧れ続けた男の目に今、自分だけが映っている。ぞくりと背筋に震えが走り、浜崎は多分、少し笑った。直後、ついと視線を落とした平木の唇が微かに動く。見つめる瞳に睫毛の影がかかり、外れた視線が惜しいと思った。  ー……書けなかったんだ  耳なりのするような静けさの中、聞こえるか聞こえないかの声量で、平木が言った。  ーこの8年、お前の曲しか書けなかった  そうして、再度こちらを向いた平木の中に、小さな炎の灯火を見、あれは俺を燃やすための火だと直感が告げ、ならば、俺が歌い続ける限り俺の憧れは死なないのだと、浜崎はそう思った。    俺が、俺だけが。あの人の火を灯すことが出来る。  「……そう。それでこいつバンドやってて、BONDSのトーヤに曲書いてもらってんだって」  「えー!そうなの?すごいねー!」  一通り話を終えた川口に向かって大貫がはしゃいだ声を出し、今度ライブ行きたいなと笑った彼女には是非と応じて、今日は呼ばれちゃったから行くねと告げた。  「ありがと。皆にもごめんって言っといて」  どうしても来られない?とごねた大貫を宥めて皆んとこ戻ろうと誘導する川口の耳元で言うと、振り返った川口は気にすんなと小声で応じてにっと笑い、おかげで少し、気分が軽くなる。そのまましばらくの間、浜崎は二人の背中を見送り、その姿が見えなくなるとすぐに、駅へ向かう人並みに身を投じた。

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