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第4話-4

 風が、ひゅうと鳴いている。窓を鳴らすほどの突風はあの一度きりだったが、平木が藤巻と話した数分の間に天候は動き、静かな秋は風に荒らされ、切り取られた空にはいくらか雲がかかっていた。  あなたを超えたいと言った、藤巻の姿を思う。きれいに澄んだ瞳の奥に、溢れるほどの闘志があった。平木に向けられた、汚れ無き純粋な戦いの意思。あなたに勝ちたい。あなたを超えて、一番になりたい。怖くはないのだろうかと、風に流されてゆく雲の一団を目で追いながら、平木は思う。超えたいから必死になって、本気で戦って、それでも超えられなかったとき、自分はどうなってしまうのかと、考えたことはないのだろうか。努力しているうちはいい。いつかは超えられると、信じていられるうちはいい。でも、一番にはなれない現実を目の前に突き付けられたとき、その時、その瞬間、自分は一体どうなってしまうのだろう。超えられないかもしれないものが、だから平木は怖くて仕方がない。必死でやって超えられなかったら、もう絶対に超えられないと思うから。本気で勝負を挑んで一度でも負けてしまったらもう、絶対に一番にはなれないと思うから。  「……いや、違うな」  そうじゃない、と平木は呟き、窓の外に目を止めたまま立ち上がる。テーブルをぐるりと回り窓に近づくと、見える景色が変わる。風に煽られてカタカタと小さく震える窓に、呼気でガラスが曇るほどの距離まで顔を寄せて上向くと、風になびく白い雲が群れる秋空が一杯に広がっており、煌めく青に目を奪われる。  超えられないかもしれないものが怖いのは、絶対に越えられると信じていたいからだ。負けるのが怖いんじゃない。自分で、自分を裏切るのが怖いから、多分、戦う前から逃げている。  はめ殺しの窓が開けられないのが惜しい、こんなに綺麗な青に手が届かないのが悔しいと、平木はちらりと考え、すいと視線を下に転じると、風に逆らい地上を行き来する人の群れが目に入る。10階のフロアは想像していたよりもずっと高く、眼下の道を行く人々は小さな点で、まるで一つの塊のように群になって蠢くあのちっぽけな点一つ一つに意思があり、一つ一つに意地があり、一つ一つに夢があるのだと平木は思い、その中で“一番になる”という目標の途方もなさが可笑しくて、唇の端で小さく笑った。  戦う勇気もないのに、負けるのが怖いだなんて言い訳だ。負ける覚悟もないのに、勝ちたいだなんて傲慢だ。負けるかもしれない。それでも、戦う。だから、勝つ可能性がある。負けたくないなら逃げ出せばいい。戦わなければ絶対に負けない。その代わり、万に一つも勝ち目はない。  藤巻の闘志に、まっすぐに応えられない自分が情けない。これはツケだと平木は思う。この10年逃げ続けてきた、その代償。  ー平木さん、見てろよ  ふと、浜崎の姿が脳裏を過る。平木の唇にぴたりと押し付けられた指先は、興奮で少し湿っていて、全身から湯気のように立ち上るあれは、多分、闘気だった。  戦っているのか、あいつも。  何と戦っているのかは知らない。けれど、浜崎も藤巻と同じ。逃げずに戦い続ける者の一人で、負けるかもしれない恐怖を前に尻尾を巻いて逃げだした自分とは対極にいるのだと、そう思った。  フロアとステージを隔てる段差が例え10㎝にも満たない小さなものであっても、ステージの上と下、その距離はあまりにも遠い。いつしか見上げることに慣れ切っていた目には、眼下に見下ろす風景はあまりにも遠く、灰色のアスファルトからこちらを見上げる衆目を夢想したところで平木の両足は小さく震えだし、とっと一歩分、窓から後ずさった。喉がきゅっと窄まる感覚を振り払うため、一つ、強めに息をつく。カァと、どこかでカラスが鳴いた。平木は未だ、歌えないでいる。

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