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第1章

「くそっ、ない、ないっ」 栗崎は炎天下に停めた営業車の運転席で、カバンやファイルを片っ端から広げていた。 エンジンを切った七月の車内は蒸し暑く、あっという間に額に汗が浮かんでくる。 「会社に忘れてきたのか……?」 そう苦々しく呟いた栗崎は『サンアイ メディカル&ヘルス株式会社』という、大手の医薬品卸会社に勤めていた。 製薬会社が作った医薬品や医療材料、医療機器などを最終的に病院や薬局に納品するのは、医薬品卸会社の仕事だ。 そして、それらの価格交渉をするのも製薬会社ではなく、卸会社である。 今日は得意先である白石内科の院長に頼まれていた見積書を届けるため、ここまでやってきたのだが、直前になってその見積書が見当たらない。 (支店長に朝っぱらから、あんな重大なことを聞かされたからだ…) 栗崎は探す手を止め、溜息を吐いた。日頃、栗崎は忘れ物をするような人間ではない。 栗崎が所属する南松岡支店では十二人の営業員がいて、その営業課の主任を務めているのだ。 (今から戻って取ってきて、院長との面会時間ギリギリってとこか) 栗崎は左腕の時計を見ると、苛立たしく車のエンジンを掛けた。 *** 「栗崎、ちょっといいか」 今朝のミーティングが終わった後、栗崎は支店長の早田(そうだ)に手招きされ、来客用の応接室に呼び込まれた。 「はい?」 栗崎が部屋の中へ入ると、早田はしっかりと扉を閉めた。そしてセンターテーブル奥のアームチェアに煙草を取り出しながら腰かける。 今年五十になったばかりの早田はヘビースモーカーで、営業には出ないせいか来客のない限りネクタイすら締めていない。しかし、その判断力や統率力などは抜群で、栗崎の尊敬する上司の一人だ。 栗崎がソファに腰を下ろすのを見て、早田はふうっと最初の煙を吐き出した。 「栗崎、これから話すことは絶対に口外しないで欲しいんだが……」 早田がまだあまり吸っていない煙草の火を灰皿に揉み消すと、嘆息混じりに声のトーンを下げた。 「実はこの南松岡支店、閉められるかもしれない」 「はあっ?」 栗崎が驚いて声を上げる。 「声が大きい」 眉を顰めた早田に栗崎は慌てて口を噤む。 「県内にはここと北松岡支店の二ヵ所の支店があるが、経営本部は売上の低いこちらを閉めて北松岡一本にしようとしているらしい。新たにうちの県に参入してきた同業他社とのシェア争いが激化してるからな。本部は無駄な経費を少しでも減らしたいんだろう。それは分かるんだが……。閉められるこっちとしちゃ納得いかねぇわな」 そう言って早田はまた新たな煙草を胸ポケットから取り出す。栗崎は少し青ざめた顔で早田の話しを聞いていたが、恐る恐る口を開いた。 「でも閉めるってまさか、俺達……」 「そのまさか、だ」 早田が煙草を指に絡ませた右手で自分の首の前を横切らせる。その仕草に栗崎が思わず生唾を飲み込む。 「俺はこの南松岡、誰一人として首を切らせる真似はしたくない。実は経営本部からの内々の指示だが、今年いっぱいの売上を見て成り行きを判断するそうだ」 「こ、今年いっぱいってあと半年もありませんよ!」 栗崎は目を瞠った。

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