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「それにまだまだ世間はさ、結婚して一人前、みたいなとこあるじゃない?俺は幸い開業医だから社内の目なんてのはないけど、俺の場合親父が煩くてさ。やれ次の院長夫人は誰だとか、やれ三代目はどうする、だとか」 「そうですね……」 栗崎の脳裏にも両親の顔が思い浮かぶ。 「でも俺は気付いてよかったよ。気付く前、俺は人を愛せない人間なんじゃないかって思ってたからさ」 そう言って笑った白石は、近くを通った店員に焼酎のおかわりを頼んでいる。 『人を愛せない』 その言葉を聞いた栗崎の胸が突然、ズキンと痛んだ。 何人かの女性と付き合ったことはある。 しかし、精神的な面でも肉体的な面でも満たされることはなかった。告白され、付き合っても、栗崎の淡白さに女性の方から自然と離れて終わっていく。 (俺は、人を愛せない人間なのかも知れない……) 栗崎はまさに自分自身にそう感じ始めていたのだ。 しかし栗崎は『一人ででも平穏に生きていければ、それでいい』と考え、独身にも関わらずマンションを買ったり、弁当まで拵えたりするほど料理に熱中したりしている。 (でも、まさか俺が……?) 偏見はないが、自分がそうだと言われるのは全く違う。急に自分の足元が揺らぎ出した栗崎は手元のビールを一気に飲み干した。 「栗崎さんって今付き合ってる人、いるの?」 「え?いいえ……」 白石の突然の問いに、栗崎は意識を戻したかのように慌てて返事をした。 「じゃあさ、せっかくだし、今日は遅くなっても大丈夫だよね?」 白石がそう言って、目を輝かせながら身を乗り出してきた。 「え?」 *** 戸惑う栗崎が居酒屋を出て半ば強引に連れて来られたのは、繁華街の一角にある外観はいたって普通のバーだった。 しかし、階段を降りて半地下になった入り口に金色の筆文字で「barヒヤシンス」と書かれた扉を開くと、栗崎はその違いに気付いた。 店内にいる全ての人間が男だったからだ。こういうバーは元々男性の比率が高いのかもしれないが、明らかにそれとは違った雰囲気を持つ場所だった。 店内はそれほど混んではおらず、薄暗い中にゆったりとしたジャズが流れ、オレンジの光に照らされたカウンター内には様々な種類の酒がセンス良く並べられている。 カウンター以外にもいくつかの小さな丸テーブルがあり、そこでも男性達が談笑しながら酒を飲んでいた。 「先生、お久しぶり」 「お、マスターも元気そうで何より」 カウンター内から声を掛けてきた大柄で髭を生やした男性に、白石が笑顔で軽く手を上げた。 マスターと呼ばれたその男性は、よく見ると顔の造作が整っており、皺のないまっ白なシャツと黒のギャルソンエプロンが男の色気を醸し出している。 その目が好奇心に溢れながら栗崎の方を向いた。 「そちらは?」 「ああ、こちら、仕事でお世話になってる栗崎さん」 白石に紹介され、栗崎は慌てて会釈をする。 「楽しんで行ってくださいね」 微笑みながら、マスターは他の客に呼ばれて去って行った。二人は頼んだ酒を手にカウンターに腰を下ろす。 「栗崎さんは俺の見立て違いかもしれないけど、新しい経験をすると思って」 そう言いながら白石がにやにやと栗崎を眺めて焼酎を口に運ぶ。 「は、はあ……」 栗崎は初めて連れて来られたゲイバーに当惑しながら、手元のウイスキーを呷った。 琥珀色の液体が栗崎の胸を熱く焼きながら胃の中へと落ちて行く。 「まあ、ゲイでもノンケでも戸惑いや悩みは尽きないけれど、人生楽しんだが勝ちだと俺は思うんだよね。恋愛もその一つ。栗崎さんも恋をしなきゃ!」 「はあ」   栗崎が生返事ばかりを発していると、白石が突然、席を立った。 「おっ!早速イイ男発見!俺、ちょっと行ってくるね!」 「えっ」 意表をつかれ、二の句が継げない栗崎を一人残して、白石は焼酎のグラスを持ってさっさと歩き出す。 「ちょ、若先生!」 栗崎が慌てて白石を呼び止めるがもうその声は届かない。白石はすぐさまカウンターの反対端に一人で飲んでいたがっちりした背中の男性と、楽しげに話し出している。 (若先生があんなに奔放だったなんて) 栗崎は苦笑いしつつも、初めての場所でいきなり一人にされ、戸惑いながら手元のグラスを見つめた。 (今日は朝から支店が潰れてリストラされるかも、なんて話は聞かされるは……。俺がゲイ?頭が混乱してどうにかなりそうだ……)  栗崎はウイスキーをロックでおかわりすると、またすぐに飲み干す。 『カランッ』 手元のグラスの中で、氷だけが音を立てる。それを何度か繰り返すと、元々そんなに酒が強くない栗崎はいつもより早く酔いが回ってしまう。 そして、少しふらつく足取りでトイレへと向かうこととなった。 「こっちか……?」 栗崎は店内の隅にある、照明から離れた真っ黒な扉を押し開け、通路を歩いて行く。その通路は足元に非常灯のようなぼんやりとした黄色の明かりが等間隔に存在するだけで、かなり薄暗い。栗崎は半ば手探りのようにして進んでいく。 「遠い……」 栗崎が困惑げに呟くと、下に降りる階段が目の前に現れた。栗崎は何の迷いもなく降りていくと、今度は重厚な木の扉に辿りつく。 「ここか?」 栗崎は酔いの回った頭でお手洗いの扉だと思ったその重々しい入り口を、ゆっくりと引いて開けていった。 「ん……?」

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