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栗崎は「ヒヤシンス」の扉を開いた。
「お久しぶりです、栗崎さん」
マスターの案内で栗崎が店内に入ると、白石の隣に座っていた大柄な男が立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。初めてこのバーにやって来た時に白石が声を掛けていた男性だ。
「あ、お久しぶりです」
栗崎も笑顔で挨拶を返す。テーブルの向かいに腰かけると、白石が隣の男性を微笑みながら見やった。
「俺と大庭(おおば)さん、正式に付き合い始めたんだ。出会った日にいてくれた栗崎さんにはきちんと報告がしたくて」
「そうだったんですね、おめでとうございます!」
栗崎たちはやって来たビールで乾杯すると白石が話を始めた。
「大庭さんは今年四十歳でシステムエンジニアをしてるんだ。大庭さんの仕事ってすごく忙しいみたいなんだけど、今日だって俺に時間を合わせてくれて……ほんと申し訳ないよ」
そう言う白石の言葉に大庭は「白石君は開業医なんだから、僕が合わせるのが当たり前だよ」と言って優しく微笑んだ。
「幸せそうですね」
栗崎は、二人を見ていると自然と笑みが零れる。
「男同士でもこうやって温かな関係が作れるんですね」
「そりゃそうさ。男だろうと女だろうと、結局は人と人だからね」
白石がにこやかに大庭を振り仰いだ。
そこにマスターがトレイを持ってやってくる。
「私からのお祝いです」
栗崎達三人の前に豪華に飾られたフルーツの皿が置かれる。
「わ、マスター、ありがとう」
白石が驚いた顔で礼を言うと、マスターは目元だけで微笑んでカウンターに戻って行く。
白石が小さな丸い球体にくり抜かれたメロンを口に運びながら栗崎に声をかけた。
「栗崎さんはその後どう? 男でも女でも何か出会いはあった?」
「はは、男でも女でも、ですか」
栗崎は苦笑いしながらも、脳裏に一人の顔が蘇った。
少しの逡巡の後、白石になら話してみようか、と思い至る。
「あの、若先生は……トオルって男ご存知ですか?二十代半ば位で黒髪の…」
栗崎は気付き始めていた。何かトオルの欠片でも知りたくなっている自分の気持ちに。
「ん? いや、知らないな? 俺の好きな体型じゃないのかも? その人がどうかしたの?」
考え込む白石に慌てて手を振る。
「あ、いや、ご存知ないならいいんです」
「僕、聞いたこと、あるかも……」
その時、大庭がおずおずと口を開いた。それは何か言い辛そうな、言葉を選んでいるような、そんな喋り方だった。
「え、ほんとですか?」
栗崎は思わず声を上げ、大庭を食い入るように見つめた。
「噂で聞いただけなんだけど、トオルって名前のすごい綺麗な男がいるって。でも……」
「でも……?」
栗崎は思わず固唾を飲む。
「うーん、何て言うか、そのトオルって男は、体しか求めてないらしい。特定の男は作らず、求めてるのは快楽だけって噂。あくまで、噂だけどね」
大庭は困ったような顔をして、何か栗崎に気を遣った言い方をしている。もしかしたらもっと酷い噂を知っているのかも知れない。
栗崎の胸の奥に燐光のような尾を引く痛みが広がる。
(ここの地下であんなことしてたんだ。当然じゃないか。俺にだって、ヤりたいからって近づいてきたんだし……)
しかし、トオルは栗崎のキスを拒んだ。
(愛する人がいるってこと、そもそもが嘘だったんだろうか……。でも、快楽のみを求めて彷徨っているのなら、キスはしないなんて、そんな面倒な線引きをするだろうか)
そこまで考えて自分自身に呆れたように頭を振った。
(もうそんなこと、どうだっていいじゃないか。俺には衝撃的でも、あの男にとっては他愛ない遊びだったんだ……)
栗崎は心の内で投げやりに呟いた。
「そうなんですね。大庭さん、ありがとうございます。ちょっと聞いてみたかっただけで」
栗崎は何気ない素振りをし、大庭に礼を言うと、それ以上トオルの話が広がらないようにメニューを広げる。
「私からも何かお祝いさせてください! 好きな酒選んでどうぞ!」
「えっ、いいの? 栗崎さん! ホントに選んじゃうよ?」
白石が悪ふざけするように笑いながらメニューを覗き込む。大庭の顔にも笑顔が戻る。
「ええ、もちろんです!」
栗崎は何かを吹っ切るような笑顔で、目の前の二人を交互に見つめた。
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