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『ピンポーン』
呼び鈴が鳴ると、リビングに居た栗崎はノートパソコンから顔を上げ、玄関へと急ぐ。
「ハンバーグ!」
扉を開けるなりそう叫ぶトオルに、栗崎が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ああ、悪い、仕事しててまだ準備ができてなくて。もうすぐ終わるからちょっと待っててくれるか?」
「わかったー」
土曜である今日は、トオルが夕飯を食べに来ることになっていた。
トオルは聞き分けよくリビングのソファに座ると、栗崎もローテーブルのパソコンの前に座り直した。
「何それ?」
栗崎の背後から好奇心いっぱいの瞳でトオルが画面を覗き込んだ。
「ああ、ただの見積もりだよ。週明けの提出なんだが、数が多くて持ち帰ってきた」
波田野総合病院の医薬品の見積もり依頼は品目が二百近くもあったので、島田と手分けして作っていた。
栗崎は資料を捲りながら、手元の電卓で計算した値をパソコンに入力していく。
「薬……?」
その時、トオルがパソコン画面を凝視したままポツリと呟く。
「ああ、処方薬の名前なのによくわかったな。俺が医薬品の卸に勤めてるって、言ってなかったけか?えっと、あとふたつ……」
栗崎も画面を見たまま、そう答える。
トオルが初めてこの部屋を訪れてから一カ月以上が経とうとしていた。
トオルは週末のほとんどをこの部屋で過ごし、平日遅くに訪ねてくることさえある。
栗崎はこの部屋にトオルが居ることが心地よかった。
これまでこのマンションを買ってから、栗崎が誰かを招いたことはほとんどなかった。
会社での飲み会などには極力顔を出すが、家まで来るような深い付き合いの者はいない。
学生時代の栗崎の部屋にはよく友人達がたむろし、朝まで飲んだくれていたが、現在はもうそのほとんどが結婚し子供が居て、飲み明かすことなどまずない。
だから栗崎は一人この部屋で過ごすことに慣れてしまっていたはずだった。
いや、一人の方が楽だとさえ思っていた。
(それが、どうだ……)
栗崎は電卓を叩きながら苦笑いをする。
こうして愛しい人間と共に多くの時間を過ごしてみると、一人で過ごしていた事が嘘のように栗崎には感じられた。
トオルと一緒に食事をして、一緒に笑い合う。
ただそれだけが、栗崎にとって幸せな時間だった。
トオルの居ないこの部屋を思うと寒々しくすら感じる。
「よし、終わった。すまん、トオル、すぐに用意するからな」
栗崎は見積もり書のデータを保存すると、パソコンの電源を落とす。
「そう言えばトオルは何の仕事してるんだ?働いてるんだろ?」
そう言って栗崎が何気なく振り返ると、なぜかそこには眉根を寄せ、苦い表情で手元を見つめているトオルの顔があった。
「どうした?トオル?」
栗崎は不思議そうな声を出す。
「待たせて悪かったよ。そんなに腹が減ってたなんて知らなくて……」
言いかけた栗崎の顔を、トオルの険しい眼差しが捉えた。
「……リョウイチ、オレのこと、本当に何にも知らないのか?」
その声は不安と苛立ちに揺れていた。
「え?」
「ほんとは……」
言いかけて、口を噤む。
(一体、どうしたんだ……?)
栗崎は突然のトオルの変容に戸惑う。
しかし腰を上げると、トオルの隣に腰掛け直した。
そしてその顔を覗き込みながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「いや……、知ってる」
栗崎の言葉にトオルがビクリと全身を強張らせて、身構えたような顔をこちらに向けた。
栗崎はその視線を真っ直ぐに捉え直した。
「俺は、おまえの背中にあるほくろの数も、考え事をする時唇に触れる癖も、機嫌の良い時に歌う鼻歌がいつも同じ曲なことも知ってる」
栗崎はそう言って笑いながらトオルの頭に手を乗せ、柔らかな髪を撫でた。
「………リョウイチ」
トオルは撫でられながら、やっと表情を緩める。
「あと、おまえの一番気持ちいいところも」
そう付け加えると、トオルが噴き出した。
「馬鹿!」
「これ以上何を知ればいいんだ?」
栗崎はトオルの頭を引き寄せた。
「うん……」
トオルは栗崎の肩に頭を預けながら頷く。
しかし、トオルの視線から逃れた栗崎の顔は途端に曇った。
(あの表情……トオルは何かに怯えている……?一体、俺に何を知られたくないんだ?)
栗崎はトオルの頭を抱く手に力を込めながらも、トオルの不安に向き合わないばかりか、自分自身の不安からも目を逸らしたことに、気付いていた。
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