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第5章

「……任、主任!」  島田の焦った小声で栗崎は意識を取り戻した。 今朝方から寒気を感じていた栗崎は、ぼんやりとした眼差しで目の前のホワイトボードに顔を向ける。 その前に立っている課長の柏木がこちらを睨みつけていた。 「栗崎、いいか?」 「……はい」 (昨日、窓開けっぱなしで寝たからか……?) そんなことを考えながら、栗崎は慌てて手元の月例会議の資料に目を通した。 * 会議が終わって自分のデスクに戻る。 カップ二杯のコーヒーを淹れてきた島田が一つを栗崎に渡しながら心配そうに顔を覗きこんだ。 「栗崎主任が会議中ぼーっとするなんて珍しいっすね。体調でも悪いんすか?」 「いや、大丈夫だ。ありがとう」 (これくらいすぐに治るだろう) 栗崎は受け取ったコーヒーに口を付け、パソコン画面に目を向けた。 「もしかして」 島田が楽しそうに椅子をスライドさせながら栗崎の隣に滑り寄る。 「恋煩いっすか?」 「ぶっ!」 耳元で囁いた島田の言葉に栗崎がコーヒーを噴き出す。 「わ、すみません!」 慌てた島田が謝りながらティッシュの箱を持ってきて、デスクに飛び散ったコーヒーを拭き始めた。 「でも、その様子じゃ図星っすか?」 島田はにやにやしながら嬉しそうに栗崎を見やる。 「ち、違う。勝手に何言ってるんだ」 栗崎は自分の耳が熱くなっているのを感じた。 「もう、恥ずかしがらなくていいっすから!今度紹介してくださいよ?栗崎主任が惚れるなんてどんな女性なんだろ」 その時、デスクに置かれていた島田の携帯電話が着信音を鳴らす。 「あ、すみません」 そう断って島田は取り上げた電話を耳にあてがった。 「あ、はい!お世話になってます!ええ、……はい、ほんとっすか!ありがとうございます!」 島田が満面の笑みを湛え、栗崎に親指を立てる。 そして口を動かすだけで「は・た・の」と伝えた。 加藤にリストをもらい、島田と手分けして作成したあの見積もり書を提出して、一週間が過ぎていた。 「いえ、……はい…えっ?あれ、全部ですか……?」 しかし、次の瞬間、島田の笑みは消え入る様に無くなり、声のトーンが落下寸前の紙飛行機のように弱々しくなっていく。 栗崎はその様子に心配になり思わず椅子から立ち上がった。 「あ、はい。わかりました。いえ、大丈夫です。では後ほど。……はい、失礼します」 島田が電話を切ると、栗崎がすぐさま声を掛ける。 「波田野の加藤局長か?何だって?」 島田のただ事ではない表情に栗崎の声にも自然と焦りと不安が混じる。 「それが……、俺達が見積もりを出した循環器の新薬の採用が決まったそうです」 「なんだ、朗報じゃないか!」 栗崎はホッとして椅子に腰かけなおした。 「い、いえ、その後が……。他に出した二百あまりの見積もり、あれ、一個も採用されなかったそうです…」 「あ?一個も!?」 思わず大きな声が出た。 どれだけ採用されるかは未知数だったが、ゼロとはさすがに栗崎も想像していなかったのだ。 島田も釈然としない様子で携帯電話を握り締めている。 「はい……、そのことで加藤局長が話があるから、これから出て来てくれないか、と」

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