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その夜、帰宅したばかりの栗崎が呼び鈴に応じて自宅の扉を開くと、カジュアルな服装のトオルが立っていた。
「リョウイチっ、ほら、この前言ってた料理の本、買ってきたぞ!」
笑顔で話し掛けてくるトオルを、栗崎はいつものようにリビングへと通した。
「ここにあのパスタのレシピが……」
「あ、ああ」
楽しそうに一人喋り続けるトオルに、栗崎はスーツのジャケットを脱ぎながら上の空の返事をする。
「リョウイチ?また一緒に飯作るんだろ?」
寝室に着替えに入った栗崎の後ろをトオルも追いかけてくる。
栗崎は無表情でジャケットをハンガーに通し、ネクタイを緩めた。
「なあ?オレ楽しみにしてたんだ」
「…………」
返事をしない栗崎の眼前にトオルが回り込んできて、瞳を覗き込んだ。
「どうしたんだ?リョウイチ?」
無理やり視界に入ってきたトオルに、栗崎のネクタイに添えられていた手が止まった。
(この唇は…あの男と……)
栗崎はトオルから苦しげに目を逸らす。
自分でもぎこちないことは分かっている。
しかし、どうしてもいつものように接することができなかった。
「リョウイチ?」
トオルは無邪気な笑みを見せながらもう一度その名を呼ぶ。
栗崎はトオルの顔を哀しげに見つめ返すと、やっと口を開いた。
「トオル……」
「なに?」
「……今日はどこで、誰と、何してた?」
僅かに上ずる声で栗崎が問う。
途端にトオルの顔に困惑の表情が浮かんだ。
「リョウイチが、そんなこと聞くって珍しいな」
トオルははぐらかすように小さく笑った。
栗崎はそんなトオルの両肩を掴んで正面から見据えた。
「波田野総合病院」
栗崎は思い切ってその単語を口にする。
瞬間、栗崎の手の内でトオルの体が強張った。
「今日そこで、おまえを見かけた」
「…………」
トオルの顔から笑みが消えた。
栗崎から目を逸らし、床を見つめて押し黙る。
「なぜ黙る?俺はトオルがどんな仕事をしているのか、昼間は何をしているのか前から知りたかった」
栗崎は平静を保ちながら言葉を続ける。
「この前、俺の作ってた波田野の見積もり、見ただろ?なんで教えてくれなかったんだ」
栗崎は苦笑いしながら俯いたトオルの顔を覗き込んだ。
「俺達、こんなに近くに居たなんて思いもしなかった。……おまえは知ってたんだろ?」
トオルは栗崎の質問には答えず、ただ唇を噛み締めた。
「秘書、なんだってな?」
そう言った瞬間、トオルが泣き出しそうな眼差しを栗崎に向ける。
「名字は園田って言うんだろ?」
「やめろ、リョウイチ……」
トオルが『聞きたくない』といった表情で、栗崎の腕から逃げ出そうとする。
しかし、栗崎の力がそうはさせなかった。
「あの、理事長が、」
そこまで言って栗崎は自分の声が震えてしまわないよう、一度大きく息を吸った。
「あの人が、おまえの…愛する人、なのか?」
栗崎の感情を押し殺した声に、顔を逸らしたトオルの肩が小さく震えた。
一瞬の、しかし永遠にも感じられる沈黙の後、トオルが眉根を寄せ、悲痛な声で囁く。
「ごめん……、リョウイチ」
その瞬間、栗崎の中で何かがピタリとはまり、そしてそのまま奈落に崩れ落ちていく音が聞こえた。
栗崎は心のどこかで期待していた。
『そんなわけないじゃないか!ただの上司だよ』
そう、トオルが笑って言ってくれることを。
「なんで、謝るんだ!?謝るってことは肯定なのか?」
栗崎は声を荒げながら、俯いたトオルの顎を右手で乱暴に掴み上げた。
「!」
トオルの怯えた眼差しが栗崎の顔に向けられる。
「なんでそう怯える?俺が理事長に何か言うとでも思ったか?」
栗崎は吐き捨てるように言った。
見積もり書のことなど、最初から全く関係なかったのだ。
「ち、違っ…!」
抗うトオルの肩を栗崎は尚も力で留め置く。
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