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第7章

栗崎は白石と大庭に誘われ、以前白石と飲んだことのある居酒屋を訪れていた。 相変わらず客の多いこの店は、あちらこちらで賑やかな声が上がっている。 「栗崎さん、そろそろインフルエンザの予防接種打ちに来てよ?」 白石は言いながら焼きとりの串を物色している。 「あ、そうだ、もうそんな時期ですね。週明けにでも伺いますのでお願いします」 栗崎もビールを飲みながら頭を下げた。 「大庭さんも流行る前に若先生のとこで打っといたがいいですよ?」 栗崎が目の前の大庭を見やると、大庭は照れたように頭を掻いた。 「あ、僕はもう打ってもらいました」 「あはは。余計な気遣いでしたね。お二人が順調そうで何よりです」 栗崎が恥ずかしげに笑う。 「ところで、栗崎さんはどうなの?この前何か言ってたけど、あの人とはどうなったの?」 白石がビールを片手に好奇心いっぱいの顔で栗崎を見つめた。 「僕も栗崎さんの話、聞きたいな」 大庭もにこやかに栗崎を見やる。 「あ、いや、私は……」 栗崎は一瞬返事に詰まる。 しかし、一旦小さく息を吐くと、思い切ったように言葉を繋いだ。 「私は、やっぱり一人がいいみたいです」 栗崎は二人に向かって明るく笑う。 「え、そうなの?」 驚いた様子の白石が栗崎を見つめ返す。 「はい、一人でいた方が気楽というか」 栗崎は尚も笑いながらビールを呷った。 「なに、どうしたの?栗崎さんはもうヒヤシンスにも行ってないの?俺達も最近は行ってないけど、ね?」 白石と大庭が顔を見合わせる。 『ヒヤシンス』 その言葉に、栗崎がこの一カ月間思い出さないよう封じ込めていた苦い記憶が一気に胸に押し寄せ、自然と眉根が寄せられる。 「あのバーに、」 (行ったことが、そもそもの間違い……) そんな言葉が衝いて出そうになり、心がズキンと痛んだ。 初めて人を好きになった。 そして、想いが報われない辛さも、初めて知った。 (……間違い、だった…の、か? 全ての想いが……) 自問自答した栗崎の脳裏には、忘れようと努力していたトオルの面影が、抗っても鮮やかに浮び上がってきてしまう。 栗崎が囚われた哀しげな瞳。 初めて繋がった時の苦しげな吐息、淫靡な眼差し。 甘えて絡みついてくる腕。 何度も何度も栗崎の名を呼ぶ声。 そして、栗崎と一緒に居る時に見せる無邪気な笑顔。 (そうだ、俺はトオルの、あいつの笑顔が見たかったんだ。それなのに、俺は) 『リョウイチ、ごめん…リョウイチにこんなことさせて……ごめん…っ!』 トオルの哀しみで歪められた顔が蘇り、泣き喚く声が耳の奥でこだまする。 (俺はあんな顔をさせたかったわけじゃない!) 栗崎は自らへの嫌悪で無意識に唇を噛み締める。 (俺が……、壊したんだ。俺は何て……、何て事を、トオルにしてしまったんだ……っ。謝るのは、俺の方だ……!) 「どうしたんですか?栗崎さん?」 大庭の心配そうな声に栗崎は我に返る。 「え?あ、すみません、ぼんやりして……」 「いや、そうじゃなくて」 白石も困惑した表情で栗崎の顔を見た後、大庭と頷き合う。 「それ……、涙」 白石に指摘されて初めて気づいた。 頬に触れると、そこは濡れていた。 栗崎の両目からはとめどなく涙が零れ落ちていた。 「あっ、え?なんで?」 栗崎は慌ててテーブルにあったおしぼりで目元を拭う。 「す、すみません!いい年した大人が」 拭っても拭っても湧き出てくる涙に、栗崎は戸惑って二人に頭を下げる。 「栗崎さん……」 白石が微笑みながら軽く溜息を吐き、栗崎の顔をそっと覗き込む。 「謝らなくていいよ。俺達の前でならどれだけでも泣いていいから」 「……!」 白石の言葉に、栗崎はおしぼりで顔を覆ったまま、小さく嗚咽を漏らした。

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