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『トオルに謝りたい』
栗崎は白石達と居酒屋に行ったあの日から、ずっとそう思っていた。
トオルとどうしてももう一度会いたかったが、その機会はなかなか訪れずにいた。
(だからこそ、ここまで追いかけて来たんだが……)
こんなプライベートなところまで入り込んでしまったことに、後悔に襲われる。
「じゃあ、この花、活けてくるね」
トオルの声が部屋の内側から聞こえてきた。
足音がこちらに向かって近づいてくる。
(しまった)
栗崎は慌てて踵を返す。
しかし。
「少しは眠ってね、父さん」
続いて聞こえてきたトオルの言葉に、栗崎は鋲を打たれたようにその場に立ち尽くした。
(父…さん………?)
目の前の扉が開く。
「……っ!」
手に柔らかな色味の花束を抱えたトオルが、栗崎を見て、目を瞠った。
――――
別館の屋上にやって来た二人は無言で手すりの傍に並んだ。
物干し場になっているこの屋上には、まっ白なシーツが何列も冷たい風に晒されている。
空は鼠色をした低い雲に覆われていた。
眼下の広大な駐車場には、たくさんの車が綺麗に整列しているのが見える。
「おまえに、謝りたいと思っていた……」
しばらくの沈黙のあと、栗崎が口を開いた。
「あんなことをして、本当にすまなかった。……体は、大丈夫か?」
「うん、もう平気だよ」
トオルが微笑むのを見て栗崎は少し安堵する。
「オレの方こそ、リョウイチの部屋から飛び出したっきりになってて……」
トオルが申し訳なさそうに俯いた。
「あれから、理事長が入院することになって、バタバタして……」
「……そうか、大変だったな。業者として出入りしているのに入院なさってたなんて知らなくて、すまなかった」
栗崎が頭を下げると、トオルが慌てて向き直る。
「リョウイチが謝ることないよ!入院したのはつい最近だし、医者の不養生がバレるって、あの人は口外しようとはしないんだ。それにこの大きな病院の理事長に何かあると色々と面倒な人たちもいるから……、入院はごく内輪だけのことに留めてあるんだ」
トオルの言葉からは波田野総合病院の理事長が各方面に与える影響の大きさが窺い知れた。
栗崎の隣でスーツを着たトオルは、そんな理事長の秘書をしているのだ。
(俺はトオルのことを本当に何も知らないんだな……)
改めてそう思い、栗崎は自嘲する。
「トオル、俺は、おまえのことをもっと知りたい。おまえのことを全て」
(俺は、もう逃げない)
心で誓い、栗崎はトオルの目を真っ直ぐに見つめた。
「トオル、おまえと理事長は、どんな関係なんだ」
トオルが息を飲み、視線を揺らす。栗崎が続ける。
「父さん、ってどういう意味だ?」
「聞こえて、たの……?」
「すまない。立ち聞きするつもりはなかったんだが」
栗崎は謝りながらもトオルの頬に右手を添え、視線を外さない。
「親子、だったのか……?だったら俺は何か勘違いをして……」
栗崎は一縷の望みをかけてトオルを見つめた。
親を愛するのは当然のことだ。
噂だってきっとただの誤解だ。
「オレは事情も知らず、勝手に嫉妬して、おまえにひどいことを……」
「いや、違うんだ」
トオルが苦しそうに眉根を寄せながら栗崎の言葉を遮った。
「リョウイチの勘違いなんかじゃない」
トオルは栗崎の手のひらから顔を背けると、微かに震える肩で大きく息を吐き出す。
「……トオル?」
「もっと早く、リョウイチには話さなきゃいけなかったんだ。一度は話そうと思った。でも、どうしても決心が着かなかった……。オレが自分のことばかり悩んでたから、リョウイチを傷つけたんだ」
トオルの瞳は深い哀しみの色に染まっていく。
「……リョウイチ」
しかし、覚悟を決めたように、つっと顔を上げた。
「理事長は、オレの父で、オレの……愛した男で、オレの……初めての、男なんだ……」
「どういう、ことだ……?」
混乱する栗崎の声が冷えた空気の中に絞り出される。
トオルは苦渋に満ちた顔付きで唇を噛み締めると、十一月の空を見上げた。
そしてその瞳が空を通り越して過去を遡り始めるのを、栗崎はただじっと、見守っていた。
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