46 / 69
8‐2
その日、いつものように学校から戻ると、アパートの門柱の脇にある桜の木の前に母が立っていた。
春の日差しが残る夕暮れ、満開の桜がハラハラと花びらを散らせている。
「おかえり、透!」
「あ、ああ」
オレは少し戸惑いながら返事をする。
母がこうしてオレを待っていたことなんか初めてで、何事かとその顔を訝しんだ。
それに、母はいつもの母の顔ではなかった。
見たことのない春物のワンピースを着ていて、その様は一言で表すと『女』だった。
「君が透君?」
そう言いながら、母の後ろから一人の男性が顔を出した。
「ずっと、会いたかったんだ」
突風が桜の花びらを撒き上げる。
霞みがかった花びらの嵐の中からこちらを見つめるその男は、俺に向かって手を差し伸べ、顔を綻ばせた。
「……っ!」
その瞬間だった。
モノクロだったオレの世界が、むせ返るような鮮やかな色彩で染め上げられていった。
目の前に広がる眩しい程の色合いに、オレはクラリと目眩を起こしそうになる。
四十代半ば位だろうか。
オレを見つめる理知的な眼差しは深い知の海を想像させた。
自らのためだけに設えられた上等なスーツを着こなし、均整のとれた大柄な体躯からは大人の色気が醸し出されている。
そして何より、彼の周りの空気は、初めて出会ったオレさえをも包み込む、不思議な柔らかさがあった。
「こちら、お母さんが勤めてる病院の院長先生で波田野剛史さんって言うの。これから一緒に食事をするんだけど、透もどうかな、と思って」
オレの顔色を窺いながら母が言った。
「急に悪いが、透君も一緒に来てくれたら嬉しいんだが」
波田野の低く通る声と優しげな眼差しに、オレは言葉もなく頷いていた。
その後、波田野の運転する高級車で移動すると、ホテルの最上階にあるレストランでコース料理を食べるという初めての経験がオレを待っていた。
まだ時間が早いせいか、店内には自分達ともう一組しか客はいない。
静かなクラシックのBGMが流れる空間で母と波田野が並んで腰かけ、その向かいにオレが座った。
「佳苗(かなえ)さんはメインは何にする?」
「私はお魚で。透はお肉よね?」
二人は時々、お互いを見つめては微笑み合う。
その間にはもう長くこうしているのだろうと思わせる時間が垣間見えた。
オレは母に付き合っている男がいるなんて、全く気づいていなかった。
目の前に並んでいる二人の姿を見ると、なぜか心がギシリと歪んだ音を立てた。
注文が済むと、波田野はオレに向き直った。
「透君は柳生館高校に通っているそうじゃないか。大したもんだ」
そう言って微笑む波田野に、オレは初めて、この高校に進んで良かったと思った。
「将来は何を目指してるんだい?」
好奇心に溢れた瞳で見つめられ、オレは戸惑いながらテーブルに並んでいるフォークやスプーンの列に視線を落とす。
(そんなこと、考えたこともない)
しかし、そう正直に話すのが恥ずかしかった。
この人の期待を裏切りたくない。
(この人に、好かれたい……)
「オ、オレは……」
「透はまだ何も決めてないのよね?」
言葉に詰まったオレの前に、母の言葉が割り込んできた。
それが、オレの心をざらつかせた。
つっと顔を上げた。
「い、いえ!オレは……、オレは、医者になりたいんです!波田野さんのような!」
勢い余ってフロアに響くような大きな声を出していた。
途端に羞恥で顔が赤くなる。
けれども、オレの言葉を聞いた波田野は驚いている母と顔を見合わせた後、嬉しそうな笑顔を零し、オレに向き直った。
「それは心強いな。透君ならきっと大丈夫だ。勉強で分からないところがあったらなんでも、私に聞きなさい」
「はいっ!」
オレの返事に波田野は満足そうに頷くと、腕を伸ばしてきた。
節の目立つ大きな手のひらがオレの頭に載せられる。
「!」
波田野はゆっくりとオレの頭を撫でてくれたのだ。
触れられた場所から、ピリっと柔らかな電流が走った。
オレは微かに頬を染めながら、自分の高鳴る心臓の音を夢心地で聞いていた。
(この手のひらから伝わる温もりをずっと感じていたい……)
その時オレは、なぜか母に対して小さな勝利感を得ていた。
医者になりたいなんて微塵も考えたことはなかったけれど、オレはそう言った自分を、それを応援してくれる波田野を、とても心地よく感じていた。
ともだちにシェアしよう!