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―――― 「じゃあ、ここはこの公式を使えばいいの?」 オレは波田野の院長室のソファで、数学の問題を解いていた。 テーブルを挟んだ向かいには波田野が座っていて、オレはその顔を覗き込んだ。 「そうだ!やっぱり透君は飲み込みが早いな」 波田野は感心してオレの頭を撫でた。 オレは波田野に頭を撫でられることが大好きだった。 波田野が触れた個所から幸せな甘酸っぱい気持ちが全身に広がっていく。 オレに数学で解らないところなんて、最初からなかった。 波田野はとても忙しいはずなのに、よくうちのアパートを訪れてくれた。 勉強を教えてくれたり、どこかに連れ出してくれたり、食事に誘ってくれたり。 大人の男性である波田野が経験させてくれるそのどれもが、オレにとっては新鮮で心の底から楽しかった。 そして何より、波田野と過ごす時間がたまらなく愛おしかった。 オレもまた、暇さえあればこうして院長室に遊びに来ていた。 「波田野さんの睫毛、長くて綺麗」 オレは波田野の顔を見つめながら思わず呟いた。 波田野は気恥ずかしそうにオレから目を逸らす。 「こら、どこを見てるんだ。じゃあ、次の問題いくぞ?」 その力強い腕に抱き締められたい。 その長い指先でオレに触ってほしい。 その唇でオレの唇を塞いで欲しいーー。 波田野と会っている間中、オレはいつもそんなことを考えていた。 波田野は限りなくオレに優しかった。 それが、母の為だと最初は理解していた。 それでもオレの恋情が、いつの間にか自分に都合よく解釈させていった。 波田野の瞳にはオレだけが映っている。 波田野の笑顔はオレだけに向けられている。 そんな夢想に耽りながら、夜、部屋で一人になると、波田野が触れてくれた髪の毛を弄りながら自慰をした。 オレはまだ子供で、波田野とのこんな日々がずっと続くと、信じていた。 ―――― 「昨日も波田野さんの所にお邪魔したんですって?透が波田野さんと仲良くしてくれて、母さん嬉しいわ」 翌朝、夜勤から帰って来た母がこれから登校しようとするオレに嬉しそうな声を掛ける。 (波田野さん、オレと会ったこと、母さんに言ってるんだ) そんなこと当たり前だと頭ではわかっているのに、波田野に裏切られた気持ちになり、胸にチクリと針が刺すような痛みが走った。 「透、ありがとう」 「!」 (あんたのためじゃない……!礼なんて言うなっ!) オレは玄関で靴を履きながら唇を噛み締める。 「でも波田野さんは大病院の院長先生なのよ?とてもお忙しいんだから、あまりご迷惑かけちゃダメよ?」 母の言葉に、オレはろくに返事もせず玄関を飛び出した。 (あんたは波田野さんのこと、何にもわかっちゃいない!どうせ肩書きだけ、自分の見栄のために付き合ってんだろ!) オレは心の内で叫びながら、胸の中に暗く淀んだ感情が抑え切れないほどに広がっていくのを感じ、無意識に自分の胸元のシャツを握り締めた。

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