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オレはただ、波田野の傍に居られればいいと思っていた。
将来は本当に医者になって、波田野の病院で働けばずっと近くに居られる。
オレはそんな志望動機で医学部を目指していた。
そして波田野と出会った春から一年が経とうとしたある日、波田野がいつものようにアパートにやって来た。
しかしその姿は普段遊びにくるようなラフな格好ではなく、スーツ姿だった。
母は浮足立ちながらコーヒーの準備をしている。
「あれ、波田野さん、今日はどうしたの?スーツなんか着ちゃって」
オレの言葉に波田野は「あ、ああ」と照れたように言葉を返しただけだった。
「あ、これ、透君が好きだって言ってたプチシトロンのケーキだよ」
「わあ!波田野さん、覚えててくれたの?ありがとう」
オレは満面の笑みで波田野からケーキの箱を受け取ると、早速それを開け始める。
「透?ケーキを食べる前にいいかしら?」
母はコーヒーを三つテーブルに置くと、オレの向かいに波田野と並んで腰かけた。
「透」
そして、母は口火を切った。
「お母さんと波田野さんね、ちゃんと籍を入れることになったの。今日はその報告を透にしたくて」
オレはケーキの箱に手を掛けたまま動きを止める。
突然胸に何か苦くて重たいものが痞えたようになり、息苦しくなった。
(結婚、するってこと…?)
「それを機に波田野さんのマンションで一緒に暮らそうって言われてるんだけど、透ももちろん来るわよね?高校へもここより近くなるし」
「透君、これからは一緒に暮らそう」
波田野の何の曇りもない瞳がオレの心を踏み躙る。
波田野は母の交際相手だ。
そんなこと始めから分かり切っていたことじゃないか。
オレはいつかこういう日が来ると知っていたはずだ。
それなのに、オレの胸は軋むような痛みを訴え始め、目の前が霞んでいく。
「で、でも、オレがいたら波田野さん達の邪魔に、ならないかな……」
消え入りそうな声でなんとか返事をした。
「邪魔だなんてそんなことあるわけないだろう?透君は私の大事な息子になるんだ。あ、それに君は奨学金をもらって大学へ行こうとしてるだろ?もうそんなことしなくていいんだよ?透君の学費は全て私にまかせてくれればいい」
波田野はにこやかに微笑んだ。
「で、でも医学部だし、波田野さんにそんな負担……」
視線を揺らし、弱々しく言いかけると、波田野はオレの言葉を遮るように言葉を継いだ。
「ああ、それに透君には『波田野さん』じゃなくて、これからは『お父さん』と呼んで欲しいな」
目の前の波田野は深く優しい眼差しをしていて、オレはその目から逃げるように俯いた。
(お父さん……)
心の中で呟くと、猛烈な吐き気がした。
母と結婚し、波田野と親子になる。
その事実が、波田野には二度と手の届かない絶海の孤島へと、オレを押し流す。
「まだ、すぐにってわけじゃないの。波田野さんは学会なんかのお仕事も忙しいし、引っ越しは来月にでもって考えてるのよ?」
母がフォローするようにオレに話しかける。
オレは波田野を見つめた。
ここで嫌だと駄々をこねて、波田野に嫌われたくはない。
「……うん、わかったよ」
オレは静かに一言、そう答えていた。
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