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「波田野さん、数学でどうしても分からない問題があるんだ。今夜来れない?」
オレの掛けた電話の向こうで、波田野はすぐさま頷いた。
『わかった。仕事が終わったらそっちに寄るよ』
オレはアパートの自分の部屋で波田野が来るのを今か今かと待ち構えた。
波田野のマンションに引っ越す日が明日に迫っていた。
そして、その日に波田野と母は入籍する手筈になっている。
母は明日から数日休みをもらうため、ここのところ連日の夜勤だった。
波田野が母のものになる前に、最後にどうしても二人きりで過ごす時間が欲しかった。
夜十時を過ぎ、波田野はやっとアパートを訪れた。
アパートの狭い玄関には引っ越しのための段ボール箱がたくさん積み上げられている。
台所の食器や居間の荷物は母がすでに梱包していた。
だがオレの部屋はまったく手を付けてはいない。
付けたくなかった。
「遅くなってすまない、透君」
疲れているのにも関わらず、こうしてオレの元にやって来てくれる波田野に、オレの胸は痛い程締め付けられる。
波田野に会うことだけがオレの喜びだった。
「オレこそ無理言ってごめん、来週模擬テストがあって。明日は引っ越しだろ?ゆっくり波田野さんに教えてもらう時間も取れなくなるかと思って」
波田野はオレの言葉に何の疑問の余地も挟まず、部屋に入ってくるとテーブルの向かいに腰を下ろした。
「それもそうだな。じゃあ、どの問題かな?」
波田野がスーツのジャケットを脱ぎながら問題集を覗き込んだ。
「えっと、これ」
オレは適当に問題を指さす。
「これはこの前の問題の応用だよ、えっと、ここが……」
目の前の波田野の顔をオレは見つめ続けた。
結婚する前の誰のものでもない波田野の表情全てを、この胸に刻みこんでおきたい、そう思った。
「……君、透君?」
波田野の声で我に返る。
いつの間にか波田野もオレのことを見つめていた。
「あ、ご、ごめんなさい。えっと、ここでこのグラフが……」
「透君?大丈夫か?最近ぼんやりしていることが多いが」
心配そうにこちらを見つめる波田野の手がオレの頭に伸びた。
大きな手のひらがゆっくりと髪を撫でてくれる。
その柔らかな仕草にオレは泣きたい様な感情を抑えて頭を預けた。
「透君、きみはその……、すごく、綺麗な顔をしているね」
その言葉にオレの心臓は歓喜で跳び上がる。
そして次の瞬間、
「佳苗さんに似て」
地の底に堕ちた。
オレはビクリと体を震わせると、波多野の手を避けて横を向いた。
「透君?」
波田野の戸惑った声に黙ったまま目を伏せる。
「やっぱり、引っ越しが嫌なのかい?」
頭上から、波田野の不安そうな声が降りてくる。
「違う……」
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