53 / 69

8‐9

後日、看護師長に聞いた話によると、引っ越しの準備や夜勤続きのせいで体調の悪そうだった母を、その日は早めに帰らせたという。 波田野は宣言した通り、オレと体を重ねたことについて二度と口にすることはなかった。 そして、母の死についてオレを責めることも決してなかった。 それどころか波田野は自分自身を責め続けた。 波田野は母を追って何度も自らも死を選ぼうとした。 それを止めるため、オレは付きっきりで波田野を見張っていた。 学校にもいつの間にか行かなくなっていた。 「お願いっ、父さんまで死なないで!オレを一人にしないで!」 オレの悲痛な叫びが部屋中に響く。 波田野のマンションの和室の梁から、一本のロープが誘うようにこちらを見下ろしている。 オレは、その輪に首を掛けた波田野を引きずり下ろしていた。 波田野が願った通り、オレは彼のことを『父さん』と呼んでいた。 波田野と母は愛し合っていた。 その間を自分の一方的な気持ちだけで無理やり引き裂き、母を死に追いやり、波田野までをも死に誘っている自分自身の罪が、体中を蝕んでいく。 それでも、波田野が死のうとする限り、オレは死ねなかった。 「オレが全部悪いんだっ!オレを責めてよ!オレを罵倒してよ!オレのせいだと言ってよ!どうして父さんが一人で苦しむんだ……!」 オレは泣き喚きながら畳に座り込んだ波田野に詰め寄る。 「オレのせいなんだ、全部、全部!お願いだから、父さんは生きて!そして、オレに死ねと言って……っ!もうオレを殺して……っ」 「馬鹿なことを言うな……、透君は何も悪くない」 波田野は生気を欠いた虚ろな表情でいつもそう答えた。 そして哀しげな笑みを浮かべるが、決してオレを見ようとはしなかった。 「私は医師失格だな」 母の死以降、波田野が患者を診ることはなくなっていた。 波田野は自分を嘲笑うかのようにそう呟きながら、立ち上がろうとする。 しかし足がふらつき、その体が大きく揺れる。 「あ!」 オレは波田野の痩せ切った肩を咄嗟に抱こうとした。 『バシッ』 だが、波田野の手がオレの手を撥ね退けた。 ……その時の目が、いつまで経っても忘れられない。 久々にオレを見た波田野の目は、何か穢れたものを見るかのようだった。 「父さ、ん……」 「す、すまない」 波田野はうろたえた声を出して顔を背けると、自分で体勢を整え、よろよろと歩き出した。 波田野には二度と触れてはならない。 波田野を二度と愛してはならないーー。 ―――― 太陽が西に傾き、鼠色の空に彩度の低いオレンジの雲が混じり始めた。 「医師という立場を使えばどんな薬でも手に入るから、父さんを病院に一人にするのが心配で。だからオレは……、秘書という名目を借りて公私共にずっと、父さんの傍に居座ったんだ」 トオルは力なく自嘲する。 「しばらく経つと、母さんと出会ったこの病院を大きくすることを生き甲斐に、父さんが死のうとすることはなくなった。……それでもオレは傍に居続けた。あれからもう十年近くになる。オレを見ることで母さんを思い出して辛いかも知れないのに、オレはオレのエゴだけで父さんの傍に居たんだ。オレと父さんは赤の他人なのに。早く父さんの傍を離れなきゃならないのに。オレはこれまで、どうしてもそれができなかった……」 トオルは想いを一気に吐き出すと、両手で顔を覆った。 その肩が小刻みに震えている。 「トオル……」 冷たさを増してきた十一月の風が、トオルの蒼い髪をもつれさせた。 『リョウイチ、オレは……、リョウイチに話さなきゃならないことがある』 (そうだ、トオルはそう言っていた……) 栗崎は暗闇に潜んでいた最後のピースをやっと見つけ出した気がした。

ともだちにシェアしよう!