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ヒヤシンスの地下で見たトオルの痴態を思い出す。 あんな行為をいつから繰り返していたのだろう。 あの地下での、自分を戒めるかのようなセックスや複数の男と体を重ねることが、母を死に追いやり、今なお義父を苦しめているトオルに、束の間の安らぎを与えていたのだろうか? あんなに罵倒され責められ、縛られたがったのは、自分の罪を罰して欲しかったからなのだろうか? (俺との関係も、俺との体の繋がりも……、自分に与える罰でしかなかったのか……?) 栗崎はそう思い至り、言葉を失ってしまう。 目の前のトオルは呼吸を整えながら顔から手を離した。 その瞳は真っ赤で、涙が滲んでいる。 (ああ、俺はまたトオルを泣かせてしまった……) 栗崎はトオルの濡れた頬に右手を伸ばす。 「っ」 しかしその頬に触れる寸前、栗崎は顔を背けながら指先を丸め、空を切って腕を下ろした。 「リョウイチ……?」 トオルの掠れた声が冷え切った風に飛ばされていく。 あの夜、栗崎は愛していると伝えたのに、行くなと手を引いたのに、トオルは出て行った。 (トオルには俺じゃダメなんだ……) トオルを幸せにできるのは、理事長だけなのだろう。 そして、それは永遠に叶わないし、トオル自身もそれを知っているーー。 (……それが、全ての答えか) そう気付いた時、栗崎の心は決まった。 胸ポケットで携帯電話が震えた。取り出すと、島田からだった。 「いいのか?」 トオルが心配そうにこちらを見やる。 「ああ、大丈夫だ」 栗崎がそう答え、しばらくすると着信は切れた。 二人の間を夕闇が満たし始める。 トオルが顔を上げた。 そして栗崎の様子を窺いながら恐る恐る口を開いた。 「リョウイチ……でも、オレは……」 「……もういい」 静かだがはっきりとした声で栗崎はトオルの言葉を遮った。 その瞳には覚悟と諦観の影が濃く差し込んでいる。 「トオル、俺は、ちゃんと代わりになれてたか?」 「えっ?」 トオルの双眸に戸惑いの色が表れる。 『俺は、おまえにとって何なんだ?』 栗崎は自らが発した問いへの答えが、今わかった気がした。 「俺は理事長の代わりになれてたか?その役目を果たせてたか?」 「リョ、リョウイチ……?」 栗崎は苦く笑うと、逃げるように目の前のトオルに背を向けた。 栗崎の眼前では取り込まれることを忘れられているのか、白いシーツ達がいまだに冷たい風に晒されている。 (俺は、愛してはいけない、愛してくれることのない波田野の、身代わり……だったんだ) 「俺に全身全霊で愛されて、おまえは満足したか?」 喉の奥に苦くて熱いものが込み上げ、声が震えそうになる。 「!」 背後でトオルが息を飲むのが分かった。 (こんなこと言ってどうする……。俺はまたトオルを泣かせるつもりか) 栗崎は自己嫌悪で瞼をギュッと瞑った。 それでも栗崎は自分なりの決別をしなければならなかった。 「トオルが……、理事長の看病をしてるんだろ?失礼だが、理事長のご病名はなんだ?」 一瞬の沈黙のあと、「ただの胃潰瘍だよ」とトオルが震える声を漏らした。 「そうか。俺にあれだけ献身的に看病してくれたんだもんな。理事長にならもっと手厚くできるんだろう。お大事になさってくれ」 「……うん」 トオルの声は掠れ、上ずっている。 その顔を見ずに済んでいることだけが、唯一栗崎を支えていた。 「俺、もう行くよ」 栗崎は無理に明るい声を出した。 「リョウイチ!」 背後から悲鳴のような声音が追いかけてくる。 だが、栗崎は足を踏み出した。 冬の始まりの冷たい黄昏の中に、どんな顔をしてそこに立っているのかわからないトオルを、置き去りにしたまま――。

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