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―――― 年が明け、初出勤の日。 栗崎は新年の挨拶をしに白石内科を訪れていた。 「若先生、明けましておめでとうございます」 「栗崎さん、おめでとう!今年もよろしく」 患者の少ない時間帯、診察室で一通り薬の注文をもらうと、白石に勧められて向かいの回転イスに腰を下ろす。 すると途端に白石の顔が曇った。 「栗崎さん、顔色悪いけど、大丈夫?新年から働き過ぎなんじゃないの?」 「あはは、大丈夫ですよ。年末年始、少し飲み過ぎましたかね」 栗崎が笑った。しかしその顔からは笑みの残像がすぐに霧散する。 「そういえば大庭さんはお元気ですか?」 「あ、うん。また栗崎さんと飲みたいって言ってたよ。栗崎さんはどうなの?最近……」 白石は言い辛そうに栗崎の瞳を覗き込む。 栗崎はその視線を穏やかな笑顔で受け止め、ゆっくりと言葉を継いだ。 「私、見合いすることにしたんです」 「えっ」 目の前の白石の顔に驚きが走る。 「もちろん女性と」 そう付け加えて、栗崎は自嘲気味に笑った。 栗崎は白石に話すことで、この事実を自分自身にも言い聞かせていた。 「……そう」 白石は小さな溜息を吐くと、栗崎に向き直る。 「それはもちろん、栗崎さんの自由だけど……、その、大丈夫?」 「何がですか?」 栗崎は表情のない顔で白石を見つめ返す。 「え……、いや……」 白石が視線を揺らしながら言葉を詰まらせた。 しかし、栗崎はにこやかな笑顔に戻り、話し出す。 「私も是非また若先生と大庭さんと飲みたいです。今度は私が場所の手配をしますので」 「ああ、うん、ありがとう……」 「では、患者さんがお待ちでしょうから、私はこれで」 「あ、あの、栗崎さん!」 立ち上がりかけた栗崎に白石が慌てた声を掛けてきた。 「はい?」 「その……、必要なら何か薬出すけど……?」 白石が不安げな眼差しで栗崎を見上げている。 「薬?何のですか?あ、新薬の件、次回はMRと同行しますので」 口元だけで笑いながら、栗崎は白石の診察室を後にした。 ―――― 栗崎が営業を終え支店に戻ると、早田が喪服姿で事務員の女性に香典の準備を頼んでいた。 「支店長、新年早々弔事ですか?」 窺うような声を掛けると、早田は険しい顔つきで栗崎を振り返った。 「おお、栗崎、戻ったのか。おまえも来てくれ!実は波田野総合病院の理事長が亡くなられたんだ」 「えっ!」 栗崎は自分でも思った以上の大きな声が出てしまい、慌てて口元を押さえた。 (亡くなった……?) 「まあ、驚くのも無理はないよな。ここ二カ月ほど入院してらっしゃったそうなんだが、その事実はほとんどの関係者には知らされていなかったらしい。だから俺達も晴天の霹靂ってやつさ。葬式は故人の意向で近親者だけで執り行われるそうだから、俺たちは今日の通夜に出席だ。仕事はもう大丈夫か?」 言いながら、早田は用意された香典をふくさに包んだ。 「は、はい。あ、島田は?」 「それがどうしても外せない接待が入ってて、さっき柏木ともう出たんだ」 「そうですか……」 栗崎は眉を顰めて頭を抱えながら、必死にトオルの話を思い出そうとする。 (屋上で話してまだ一カ月半だぞ……?胃潰瘍じゃなかったのか?くそっ) 栗崎は唇を噛み締めながら、急いで社内に常備されている黒ネクタイに締め直す。 しかしその指先は小刻みに震えていた。 理事長の余命がいくばくもないことは、もちろんトオルは知っていたに違いない。 (それなのに俺は……) 胸に斬り込むような痛みを感じながら、栗崎はただトオルのことだけを想った。 (今、おまえはどんな気持ちでこの時を過ごしてる……?) 『リョウイチ!』 最後に栗崎を呼んだ悲鳴のような声が耳に蘇る。 今すぐおまえを抱き締めたい。 おまえの傍に居たい。 おまえが誰を想っていようとも。 (俺はどうして、あいつの元を離れたりしたんだ……!) 後悔に叫び出したい衝動を堪えて、栗崎は早田と共に理事長の通夜が行われる斎場へと向かった。

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