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「あ」
栗崎は慌ててその力を緩めると、困惑気味に頭を掻いた。
「栗崎が得意先を大事にするのはよく知っている。あんな奴ら、好きなように言わせとけばいい」
「はい……」
そう答えながらも栗崎の顔は強張ったままだった。
すると早田はそんな栗崎を見ながら、ゆっくりと煙を吐いた。
「俺がまだ一営業マンだった頃、波田野理事長にはお世話になったことがあるんだ。その頃はまだ院長をなさってた」
「え、そうなんですか?」
栗崎は驚いて早田の顔を見つめる。
「ああ。いつも患者に親身で、時間外でも嫌な顔ひとつせず診療する、尊敬に値する医師だったよ」
早田は少し遠い眼をしながら口元に煙草を運ぶ。
「理事長になってここ十年ほどは病院の経営ばかりに奔走されていたのは事実だが、理事長が建てたたくさんの施設で多くの患者さんが命を救われているのもまた事実だ」
「そう、ですよね……」
栗崎は早田の言葉に頷く。
「それに、去年だったか、製薬会社の催したパーティで久々にお会いしたんだが、その時おっしゃっていたよ。自分には子供はいないが、秘書の……なんだったか、名前は忘れたが、その秘書がよく尽くしてくれて、本当の息子のようだ、自分は幸せ者だ、と」
「………っ」
(トオルのことだ……!)
栗崎は途端に目頭が熱を帯びそうになり、思わず俯く。
「あいつらから見たら理事長の人生は不幸だったかも知れない。でも俺から見たらそうは思えない」
早田はそう言って少し笑うと、「人の人生なんて、他人からはほんの一面しか見えないものさ」とぼそっと付け加えて、煙草の火を揉み消した。
(トオル……!)
栗崎は胸に込み上げる想いを噛み締めながら顔を上げた。
(おまえに早く、早く、この話しを、理事長の想いを伝えたい……!おまえは今、一体どこにいるんだ!)
しかし、通夜の全てが終わっても、トオルが斎場に姿を見せることはなかった。
――――
斎場を出て早田と別れると、栗崎はトオルを探して繁華街へと足を踏み入れていた。
トオルの携帯に電話を入れるが、すぐに留守番電話へと転送されてしまう。
波田野総合病院にも問い合わせてはみたが、もちろん出勤はしておらず、このご時世、プライベートなことは何一つ教えてはもらえない。
トオルのことを探そうとしても、自宅も、友人関係も、よく行く場所も、何も知らないという事実を改めて思い知らされるばかりだった。
栗崎がトオルについて知っているのは、結局、ヒヤシンスの地下に居たということだけだ。
(一度、マスターに聞いてみよう……)
今夜は雪が降りそうなほど寒いのに、繁華街の金曜の夜はまだまだ人通りも多く、新年会帰りか、酔客で騒がしい。
(どこにいるんだ? まさか……)
悪い予感ばかりが胸の中に広がっていく。栗崎の中で焦りだけがただ積み重なっていた。
トオルの姿を探し、辺りを見回しながらヒヤシンスの近くまでやってきたときだった。
手前の狭い路地から男達の野次や怒鳴り声が聞こえてくる。
「喧嘩か……」
栗崎は呆れたように呟いた。
四、五人の男達が輪になって、地面に伏した男を蹴り上げている。
「ほら、立てよっ!」
「おらおら、さっきまでの威勢のいい口ぶりはどうしたぁ?」
男達の嘲笑う声と人間を殴る肉のぶつかる音が通りまで聞こえてくる。
しかし、通行人達は皆、見て見ぬふりをして通り過ぎている。
(近くに交番があったはず。警官でも呼んでくるか……)
栗崎がそう考えた時、派手な身なりの男が倒れ込んでいる男の襟を掴み上げた。
「ほら、もう一度言ってみな? 綺麗な顔が台無しだぜ?」
今にも殴りかかりそうに腕を上げた男の脇から、蒼い髪とその顔が見えた。
「……トオルっ!」
栗崎は弾かれたように男達の輪の中に走り込んでいた。
「止めろ!何してるんだっ!」
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