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第3話 閉店間際
二十時を過ぎても郁人は来なかった。ああは言ったけれど実は社交辞令だったのではないか。さっき見ず知らずの人間と話していたのと同じ気安さで、『食べにくる』って言ったんじゃないだろうか。
時計は閉店十五分前を指している。この時間から来る客はほとんどいないから、忘れ物の確認を兼ねてテーブルや椅子を拭いていく。一通りきれいにしたらカウンターに戻り、店奥のテーブル席から入り口に向かって舐めるように店内を見渡した。店内に残る客は二人。もう食べ終わっているから間もなく帰るだろう。
ふっと気配を感じて視線を上げた瞬間、扉が開いた。
「いらっ、あ......いらっしゃいませ」
扉を開けたのは郁人だった。あまりに普通に立っているから、もしかしたら『もう食べたから、帰るわ』と言われるんじゃないかとすら思った。固まっている俺を見て郁人はくしゃっと表情を崩して笑顔になった。
「遅くなって悪い、夜定食まだある?」
何事もなかったかのように昼と同じカウンター席に腰かけた。食べ終わるころにはちょうど閉店時間となり、そのまま宅飲みしようという話になった。
片づけを簡単に済ませてから店を閉め、定食屋からほど近い俺のアパートに向かう。
郁人は講義が終わった後、酒を買いに行っていたらしい。荷物の入ったデイパックにビニール袋を手に提げていた。小ぶりな日本酒の瓶とビールらしき缶が、袋を強く押し広げている。内側から歪に飛び出ている角は、ちょっとしたきっかけで破れて、中身をぶちまけそうだ。
少しだけ近道をするために、空き地の横にある未舗装の道を通る。まだ夏の名残のある秋の夜、道端からは虫の音。静かな夜を抜けてゆく。これから二人きりで飲むことに気持ちを掻き立てられる。
俺たちは卒業式の後「また飲みに行こう」って定番のセリフを交わしていた。でもその後今日まで一度も会っていなかった。勤め先が遠く離れていたし、もともとサークル以外何の接点もなかった。会わなければ忘れられる、そして次の恋をしようとひそかに心に決めていた。なのに、どうして今好きな相手と俺の部屋に向かっているんだろう。こんな風に並んで歩けるのは何のご褒美だよって、見えない何かに聞きたくもなる。
「郁人は明日仕事?」
「そうそう、でも十時出勤だから。海斗は?」
「不動産屋ってそんなに遅いの? 俺は材料の受け取りと仕込みがあるから、九時頃に店かな」
「うち、遅くまで開けてるからシフト制なんだよ。お前は毎日一人でやってんの?」
「いや、昼だけ一時まで手伝ってもらってる。さすがに一人じゃ回んねーわ」
「ふうん......」
郁人のスニーカーは相変わらず軽やかに地面を蹴ってゆく。歩くのが早いこいつの隣に並んで歩く女の子はいるのだろうか? 聞きたいことは何一つ口にしないまま、ただささやかで心地よい時間を味わいながら、郁人の話に相槌を打っていた。
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