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第5話

 大学の四年間、郁人の心も身体を全部自分のものにしたいと思いながら、我慢し続けてきたんだ。郁人が喜ぶのなら、もう一度友達に戻って付き合っていこう。くだらないことで、この再会を台無しにしたくはない。  そんな俺の葛藤に気付く気配もなく、郁人は焼きネギに箸を伸ばしていた。箸で摘まむと断面からとろりと液を溢れさせる。ネギに粗塩とコショウとごま油を振っただけの、誰にでも作れるシンプルなつまみだ。箸を止めて郁人がじっと皿を見ていた。 「何か変?」 「ううん、昔もよく焼きネギ作ってたよな。見ただけで味が思い出せる。俺の舌、どんだけお前に飼いならされてんだよ」  そう言って笑った郁人は二年前と同じ距離で楽しそうに舌先を見せた。白い歯の隙間からのぞく熟れた色。血色の良いピンクが、服に隠された肉体を連想させる。それを引き剥がした内側にある、暖かく湿った粘膜の存在を。  無防備な行動が理性のタガを揺さぶってくる。ぐっとつばを飲み込んでこぶしを握り締めた。 「酔って舌なんか出してんじゃねーよ......キスするぞ」  思いがけず低い声に、郁人が真顔になった。 「そんな怖い顔すんなよ、冗談だろ」  冗談、そうだ、これは単なる冗談だ。本気だよ、って言う勇気のない俺は口元を拭いながら向こうをむいた。ワンルームでは逃げ場なんかない。視線の先には大学の時から使っているカーテンがむなしく下がっているだけ。  ばか野郎、人の気も知らないで。唇を噛んで気持ちを落ち着けた。フライパンに触れた指がちりちりする。肉を焼くのと同じ、熱が身体の組成を変えたんだ。火傷した個所はもう元には戻らない。  そんな俺の肩に郁人の手が置かれた。  友達に戻って「冗談にきまってるだろ」って言わないと。そう自分に言い聞かせながら振り返ろうとする前に、肩を強くひかれた。郁人の濡れた瞳がまっすぐに俺を射抜いていた。赤く染まった頬が動き、郁人の唇が挑発的に歪む。 「海斗は都合が悪くなるとすぐ逃げる」 「逃げてなんかねーよ」  こちらを揶揄うような表情に攻撃的な衝動がわいてくる。顔を近づけると、郁人も負けじと顎を突き出してきた。  郁人だ、ずっと一緒にいたかった。俺が全部ほしかったのは郁人だ。ほんの十数センチ先にいる郁人だ。  アルコールで少しだけ現実感の薄れた世界に、あいつの声がした。 「そこまで言うならやってみろよ。でも、お前にできるの?」  何かの合図みたいに湯沸し器がカチッと音を立てて止まった。部屋の中はしっとりとした空気に満たされて気持ちが飽和してゆく。悔しい、このまま無理やりキスをして押し倒してしまいたいのに。顔を近づけても郁人は目を逸らさなかった。代わりに、鼻先が触れそうな距離を保ったまま重心が少しずつ後ろに下がってゆく。  郁人は床の上にあおむけになりながら、覆いかぶさる俺をまっすぐに見ていた。この部屋はこんなに湿度が高いのに、喉がカラカラだ。唾を飲み込む音が大きくて、心臓がまた走り出す。 「やってみろ、とか言うなら本気にするぞ」  ようやく絞り出した俺の気持ちを、郁人は鼻で笑った。

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