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第8話

「お前さん」  はっきりとした弥次郎の声が聞こえ、スイは飛び起きた。  頬はこけているが、血色の良くなった弥次郎が胡坐をかいて座り、にこやかに笑っていた。 「弥次郎、あんた…夢か、これは」 「ははは、そうだなぁ夢かもしれねぇ。あんなに苦しかった身体が、今は全然痛くねぇんだ。それにな、お前さんの姿が良く見える。お前さん、こんな顔してたんだなぁ。綺麗な目だぁ。きっと最期に神様が見せてくれたんだ。おれ、これからあの世に行くんだ」   弥次郎の目からは大粒の涙が零れ落ちた。白く濁っていた目は黒い輝きを取り戻しており、真っ直ぐスイを見つめていた。  河童の里に伝わる秘薬は、弥次郎の死病だけでなく、目の病も治してくれたのだった。 「死んでなんかいねぇよ。夢でもねぇ。魚獲ってくるから、あんたはまだ寝てろ」  スイは弥次郎を布団に押し込み、表へと出た。やたら冷え込んでいると思えば、外は一面の銀世界だった。  よかった…!  歓喜に駆け回り、足の裏が痛いのも忘れて川へと急いだ。  水面に映った己の姿は醜いものだった。焼け爛れたような痕の残った黄色い肌に、平坦な口。伸びた頭髪が頭頂部を覆っている。それに自慢だった水掻きが無くなって、魚を捕まえるのが一苦労だった。  それでも何とか二匹捕まえて抱えて家に帰ると、玄関先に女の姿を認めて足が自然と止まった。  ミヨとかいう、あの日、弥次郎を見捨てて去った、弥次郎が惚れている女だった。 「なんで今頃…」  スイの小さな呟きは、雪に吸い込まれて消えた。  咳が消えて目が見えるようになったと朗らかに笑う弥次郎。ミヨも満更ではなさそうに家の仕事をしている。  赤々と燃える囲炉裏の炎。米と野菜の煮えるいい匂い。 「人間の男と女…お似合いじゃないか。俺は弥次郎に何ができる」  もう前のように水に潜って魚を獲ることもできない。  弥次郎の子を産んでやることもできない。  弥次郎の目になる必要もない。  スイは己の無力さに絶望し、力の抜けた腕から魚が雪の積もった地面へと落ちた。  家には戻らず、どこかで一人ひっそりと暮らそう、スイがそう考えて踵を返そうとした時だった。 「何処へ行くんだい!」  家の中から弥次郎が飛び出してきた。まだふらつく脚で、懸命にスイの元へと駆け寄ろうとするが、途中で膝をついてしまった。  スイは慌てて弥次郎に駆け寄り、肩を支えて立ち上がらせた。 「何してんだ、あんたまだ病み上がりだろう」 「何してんだは、こっちの台詞だ。お前さん、何処へ行くつもりだったんだい」 「何処って…」  言い淀むスイの胸に頭を擦り付けた弥次郎は、切ない声を上げた。 「お願いだ、何処へも行かないでくれ。病がやっと治ったんだ、ここでまた一緒に、」 「暮らせるわけがないだろ…! 俺は、俺は…!」 「弥次郎さん、大丈夫かい。――あら、弥次郎さんのお知り合い?」  家からミヨが出て来て、スイは腕の中にいた弥次郎を引き剥がした。 「あんた、そのミヨって娘と一緒になるんだろ」  スイはそれが一番だと本心から言ったのだが、ミヨに大笑いされた。 「あはは! 何言ってんだい、この兄さんは。あたしは弥次郎さんがおっ死んだかなと思って様子を見に来ただけさ。自分の子より若い弥次郎さんと色恋なんて、天国の旦那に笑われちまう」  ミヨは皺くちゃになりながら大きな笑い声をあげて帰って行った。残されたスイと弥次郎は互いに首を傾げながら顔を見合わせた。 「あんた、じゃあなんであの時」 「あの時?」 「おミヨに惚れてんのかと、俺が訊いただろう。あの時、あんたは顔を真っ赤にして、だからてっきり――」 「あ、あれは…! 好いた惚れたの話をしていたからさ、その、おれは…お前さんのことが…」  首まで真っ赤になった弥次郎を、スイは腕の中に閉じ込めた。 「スイだ」 「スイ…思った通りの、綺麗な名前だ」  目が合うと、どちらからともなく唇を求め合い、熱を分け合った。

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