2 / 8

第2話

 1  晴斗の幸せの記憶は、いつもそばに海があった。  両親はなだらかに続く海岸線が見渡せる町で、小さなレストランを経営していた。  家には母方の祖母が同居していたが、祖父は一度も会ったことがない。ロシア系の外国人漁師だった祖父は母が生まれる前に海で亡くなり、祖母が看護師をしながら、ひとりで晴斗の母を育てた。  だから祖母は海が好きだった。祖父と会える気がすると言って、よく晴斗を連れて浜辺を散歩した。レストランが休みの日は、父と母も一緒に、家族揃って海辺で過ごした。  日差しを反射する眩しい水面と、祖母や両親の笑顔に包まれて、晴斗は泳ぐことが大好きになった。  小学校へ通うようになった晴斗は、祖父に似た日本人に見えない顔つきと茶色の髪で目立っていたため、クラスで浮いてしまい、なかなか友達ができなかった。  それでも晴斗は気にしなかった。友達とゲームをするより泳ぐことが好きで寂しくなかったし、暇さえあれば海で泳いでいる晴斗を、両親と祖母が優しく見守ってくれた。  海の中は温かく、浜を見れば祖母か母か父の誰かがいて、笑顔で手を振ってくれた。それだけで晴斗は幸せだった。  しかし、晴斗が小学六年生の時……両親と祖母が交通事故で亡くなってしまった。  ちょうど晴斗が修学旅行に行っている間で、父が運転する車に母と祖母が乗り、買い物へ出かけた帰り道だった。酒気帯び運転のトラックと正面衝突し、相手は軽傷で済んだのに、運悪く父が運転する車は大破し、両親と祖母は即死した。  涙が涸れるほど泣いた晴斗は、父方の祖父母の家に引き取られ、海のない土地で過ごすことになった。 「――他の孫と違って晴斗は本当に変わっているわね。あまりしゃべらないし、お友達はいるのかしら」 「まったく、可愛げがない子だよ。大体、雪乃(ゆきの)さんは未婚で晴斗の母親を生んだそうじゃないか。どんな血を引いているのか」  自分だけでなく、祖母まで否定する言葉を聞き、晴斗はショックを受けた。  侮蔑の色を滲ませた父方の祖父母を前にすると萎縮してしまい、何も言えなかった晴斗は、ますます自分の殻に閉じこもるようになった。  学校にも馴染めなかった。中学に入ると水泳部で泳いでいる時だけが、生きている自分を感じられた。  水の中でできる仕事をしたいと思った晴斗は、高校を卒業したら両親が残してくれた保険金で専門学校へ進学し、水族館飼育員になりたいと希望するようになったが、祖父母は堅実なサラリーマンの方がいいと反対した。 「水族館ですって? 他の孫たちは大手企業に勤めたりいい大学に入ったりしているのに」 「まったく、どうして晴斗だけこんなに変わっているのだろう」  憤慨する祖父母に、晴斗は初めて反対意見を述べた。 「おじいちゃん、おばあちゃん……ごめんなさい。でも僕、どうしても水族館で働きたいんです……!」  晴斗の気持ちが変わらないことを知ると、祖父母はしぶしぶ認めてくれた。  専門学校を卒業した後、契約社員ではあるが、東京近郊で古くから続いているサンサン水族館へ就職できた。  水族館の中にいる生き物と接していると、かつて祖母や両親と過ごした幸せを感じられた。晴斗が配属されたのは海獣班だ。  仕事はイルカやアシカ、セイウチなどの飼育を担当し、仕事の基本は三つの「じ」と言われ、餌を作る「調餌」と餌を与える「給餌」それに「掃除」が中心だった。  水族館に勤務し始めて一年が経ったある日――。 「……立花、すぐに調餌に入ってくれ」 「わかりました」  同じ海獣班の中村(なかむら)勝志(かつし)先輩に言われ、晴斗はウェットスーツの上に汚れ防止の胴長をつけ、冷凍庫から餌のアジとサバを運んできた。調餌室で流水解凍の後、鮮度や全体の傷み具合をチェックしながら、劣化した頭部を包丁で切り落とし、体の部分を給餌バケツへ入れていく。  イルカ一頭につき、一日に七キロから十四キロくらい食べるので調餌だけでも大変な作業だ。トレーニング、給餌、ショー、給餌と毎日給餌で忙しいので、少しでも早く調餌できるように、晴斗はひとり暮らしの家でも魚を買ってきて練習したりした。  その甲斐あって早く調餌を終えた晴斗は、隣で作業している処理が遅い中村先輩に「お手伝いします」と声をかけた。  中村先輩は晴斗よりひとつ年上の二十三歳で、海獣班内で一番年が近い先輩だ。  しかし、中村先輩のバケツの中のアジに手を伸ばした途端、冷たい声が飛んできた。 「俺の分は自分でするからいいよ。給餌に行ってくれ」 「あ……はい」  遠慮ではないとわかる中村先輩の強い口調に、晴斗はそっと掴んだアジをバケツに戻した。 「そ、それでは、先に給餌へ行ってきます」  おずおずと自分の分の給餌バケツを持って調餌室を出る。扉のところでふうっとため息をつく間もなく、中から中村先輩と、海獣班のチーフ、前原(まえはら)真美(まみ)先輩の声が聞こえてきた。 「勝志くん、今の言い方はよくないわ。立花くんが可哀想じゃないの」 「だってさ、俺、なんか立花見ているとイラつくんですよ。あいつハーフだかクオーターだか知らないけど、ちょっとばかし顔がよくて仕事が速いからって優等生ぶって。気に入らないっすね」  ドクンと晴斗の心臓が音を立てて跳ね上がる。少しの沈黙の後、前原先輩の声が聞こえてきた。 「まあ確かに、立花くんはとっつきにくい感じがするから、勝志くんの気持ちもわかるけど。同じ班だし、仕事中は仲良くしてよ」  ――中村先輩も前原先輩も……そんなふうに思っていたの……?  無防備な状態で突然聞こえてきた「気に入らない」や「とっつきにくい」という言葉が、鋭利な刃物のように晴斗の胸の奥に突き刺さり、足元がぐらついて崩れ落ちるような気がした。  晴斗は震える手でバケツを持ち、足早に調餌室から離れる。  ――傷つかなくていい。いつものことだから……。  小さな頃から人付き合いが苦手だった。気を遣っても周りから浮いて、疲れてしまう。  そんな晴斗を愛してくれた両親と祖母との思い出だけが、心のよりどころだった。  それでも、この水族館で働き始めて無事に一年が経ち、先輩たちと打ち解けてきていると思っていた矢先だった。  そういえば、この水族館のスタッフは、互いに下の名前で呼び合うことが多いが、晴斗は苗字の立花と呼ばれている。 「どうして僕は……周りから浮いてしまうんだろう」  輪に馴染めないのは慣れているのに、こうして現実を知るたびに目の奥が熱くなり、傷ついてしまう。そんな弱い自分を叱咤するように晴斗は唇を噛みしめて首を横に振った。  ――気にしない、気にしない。さあ、仕事を頑張ろう……!  調餌中の汚れ防止の胴長を脱いでウェットスーツだけになり、給餌バケツを持ってイルカプールへ近づくと、晴斗の相棒のバンドウイルカのユアンがプールの中から顔を出し、「キュー、キュー」と鳴いた。  朝の日差しを反射する水面が眩しい。ユアンを見ると暗く重い気持ちが霧のように溶けていく。 「おはよう、ユアン」 「キュ!」  プール内にいる濃灰色のユアンのそばに膝をつき、その頭から背中にかけて刻まれた傷跡を辿るように優しく撫でると「キューキュー」と楽しそうに笑い返してくれた。 「僕にはユアンがいる。大丈夫だ」  自分を鼓舞するようにつぶやき、明るい声を出す。 「さあ、朝ごはんの前に体温チェックだよ、ユアン」 「キュ!」  体温測定機の細長いセンサーをユアンの肛門に挿入して、直腸の温度を測った。イルカは人の体温と同じ三十六度前後の体温をしている。 「今朝の体温は三十六度五分か。大丈夫だね」  笑顔を向けたが、ユアンはぼぅっと空中を見ていた。いつもと違って覇気がないので心配になる。 「ユアン? 具合が悪いの? ほら、朝ごはんだよ」  明るく声をかけながら給餌バケツのアジを与えると、ユアンはいつものようにそばに寄り、元気に食べ始めたので安心した。 「美味しい?」 「キュ、キュ……」  ユアンはかつて、弱って海を漂っていたところを漁船に保護されて、この水族館へ連れてこられたのだと聞いている。海にいる時に負ったのか、ユアンの背中には傷があり、なかなか他の飼育員に慣れなかったそうだ。  しかしユアンは、なぜか新人の晴斗にだけはすぐになついた。その様子を見た海獣班チーフの前原先輩の提案で、ユアンと晴斗がコンビを組むことになり、二か月ほど前からショーにも出るようになった。

ともだちにシェアしよう!