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第3話

「――立花くん、ショーの打合せを始めましょう」  前原先輩の声がプールサイドに響き、晴斗はハッとして立ち上がった。しかし駆け寄ろうとして、先ほど聞いてしまった言葉が胸の奥から迫り上がり、濡れて滑りやすくなったプールサイドですべって、思い切り尻もちをついてしまう。  あわてて起き上がると、前原先輩が今日のショーの流れを掲示したタブレットを晴斗に手渡した。 「大丈夫? 午前が立花くんとあたしだから、プログラムを確認してくれる?」 「はい……!」  ドルフィン館で行われるショーは、前原先輩と中村先輩と晴斗の三人で交代しながら担当している。午前と午後の二回行われるので、大体午前が前原先輩と晴斗、午後から前原先輩と中村先輩が担当し、晴斗と中村先輩は出番のない時はMC係をする。  さっき調餌室で聞いたことなどは胸の奥に封印し、先輩たちと一緒にショーを盛り上げていかなくてはいけない。晴斗は意識をプログラムに集中し、タブレットを確認して頭の中に記憶すると前原先輩へ返した。 「確認しました」 「OKね。ふふ……ねえ知っている? 立花くんはお客さんからすごい人気なのよ。イルカに乗った美少年とか、素敵すぎるトレーナーとか、書き込みが水族館のブログにたくさん届いているの。立花くんって本当にきれいだもの。彫りが深くて色白で、肌だってつるつるだし、うらやましいわ」 「僕はそんな……」  戸惑うように瞳を揺らしてうつむく晴斗の肩を、前原先輩がポンと叩いた。 「若い女の子のファンが増えているし、ショーの楽しさをたくさんの人に伝えられるように頑張ろうね」 「……はい」  ふいに、イルカのプールから前原先輩のパートナー、バンドウイルカのネローがジャンプして、バシャンッと大きな音を立てて背中から豪快に着水した。晴斗と前原先輩はずぶ濡れになってしまった。 「もう、ネローったら」 「キューキュー」  ネローが笑い声を上げて遊ぼうというようにプールの中を泳いでいる。晴斗も表情をほころばせる。イルカはいたずら好きで、ショーをしている時もほとんど遊んでいるという感覚で楽しんでいるのだ。晴斗はそんなイルカたちが大好きだった。  ショーの準備をしていると、軽快な音楽とともにアナウンスが流れ始めた。 『サンサン水族館で一番人気のイルカショーがもうすぐ始まります。どうぞドルフィン館へお集まりください』  晴斗は前原先輩とともに、海面が煌めいている大きな野外プールの横にスタンバイした。  揃いの黄色と紺色のウェットスーツはオーダーメイドで、潜水作業やショーの出演などの時、トレーナーは全員これを着ている。 「あと十分でショーが始まるわよ」  二人で使用する道具を確認していく。晴斗は小さく息をついた。大勢のお客さんを前にすると、まだショーに出て二か月の晴斗は緊張して手に汗が滲んでしまう。そのことに気づいた前原先輩がにっこり笑った。 「晴斗くん、大丈夫よ、今日もいつもの調子で……! そうそう、今日はあたしの彼氏が仕事休みなの。見に来てくれているはずなのよ」  前原先輩は視線を観客席の方へ向けると、「いたわ」とつぶやいて小さく手を振った。  メインプールが大きいのでここから観客席は遠いのに、彼氏の居場所はすぐにわかったようだ。すごいな、と晴斗はうらやましく思う。 「仲がいいんですね」 「ふふふ、あたしと彼、付き合ってまだひと月だけどラブラブなの。一目惚れだったのよ」 「一目惚れですか……?」  晴斗は一目見ただけで好きになる感覚がどんなものかわからない。 「立花くんは一目惚れの経験、ないの? 直観というか、パッと目が合った瞬間に火を点けられたように全身が熱くなって、その人のことしか視界に入らなくなってしまうの。それで思い切ってあたしから声をかけて、付き合うようになったのよ」  恥ずかしそうに手で頬を押さえる前原先輩が、「そういえば」と晴斗を見つめて尋ねた。 「立花くんの彼女は?」 「いいえ……恋人はいませんので」 「え、いないの? 美形なのにもったいない! でも、いつも一緒にいたいとか、無意識のうちに相手のことを考えているとか、そんな甘酸っぱい恋の経験はあるでしょう?」  明るく問う前原先輩に、晴斗は正直に首を左右に振った。 「あまり……ないですね」 「ええっ、そうなんだ」 「はい……」  スマートな返事ができない晴斗は、目を丸くしている前原先輩を前にもごもごと口ごもってしまい、会話が途切れてしまう。  人付き合いが苦手で恋人どころか友達もいない。もとより、両親と祖母が亡くなった後、ずっと自分はひとりだった。ちゃんとした恋愛ができる自信もないし、一生ひとりで生きていかなければならないような、そんな予感が晴斗の心の奥底に暗く残っている。

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