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第4話

「ねえ、立花くんのご家族は見に来たりしないの?」 「……あ、はい……」  父方の祖父母は一度も見に来てくれたことがない。長女一家が祖父母と同居するようになって出ていくように言われ、晴斗は追い出されるようにして水族館近くのアパートでひとり暮らしを始めたのだ。  じきに曲が変わって、音響室のガラス越しにこちらの様子を見ている中村先輩の声がスピーカーから流れ出す。 『ようこそサンサン水族館のドルフィン館へ! さあ、イルカショーが始まります。担当するのはこの二人――前原トレーナーと立花トレーナーです。どうぞ!』  晴斗は深呼吸して背筋を伸ばし、気合の入った表情で前原先輩と野外ステージの中央へ出ていく。一斉に観客席から拍手が起こった。  目を輝かせてこちらを見ている観客たちに両手を上げて応えながら、メインプールの中のネローとユアンへ水中でも聞こえる専用の笛を吹いて合図を送る。  イルカの演技にはそれぞれハンドサインがある。まずは単独で泳ぐようにサインを出すと、ネローに続いてユアンもいつものようにプールの中を元気よく泳いで観客に尾ビレを振ってアピールする。  その次はボールを投げてキャッチボールだ。晴斗とユアン、前原先輩とネローがそれぞれ息の合った投げ合いをすると会場がわっと沸いた。  そして次は一回目のイルカだけのジャンプだ。ネローが前原先輩の合図でジャンプすると、大きな水しぶきと歓声に包まれ着水した。そして次はユアンだ。 「飛べ、ユアン」  ジャンプのサインを出すと、ユアンが水面下に深く沈み込む。  晴斗は時間をカウントしながら、プールサイドを注意深く見つめた。  ――よし、いいタイミングだ。  水面の中から黒い影が近づき、水しぶきを上げてユアンがスピンしながら空中へ飛び出してきて日差しを浴びて高くジャンプした。  ここからがユアン独特のジャンプで、着水と同時に水しぶきを飛ばした後、再び水の中へ潜る。深く泳ぎながら間髪を入れずにスピンし、ユアンが連続して空中へ飛んだ。  スタンドから「わあぁっ」と歓声が上がり、晴斗はユアンに褒美のアジを与える。その時、異変に気づいた。ユアンが晴斗を見つめてじっとしている。そのつぶらな瞳が何か言いたそうで、晴斗は小首を傾げた。 「ユアン? ネローの演技の後、今度は僕を乗せてジャンプだよ。いいかい?」  プールの中に入った晴斗がユアンの背に手を当てると、頭の中に聞いたことのない高い声が響いた。  ――ハルト、助ケテ……。  晴斗は目を瞠った。その声は触れているユアンの体から振動して伝わってくる。  こちらをじっと見つめているユアンの黒色のつぶらな瞳に、思わず喉がこくりと鳴った。 「まさか……ユアンの声なの? しゃべれるの?」  一年もの間ユアンと一緒に過ごしたが、声を聞いたのは初めてだ。言葉を話せるなんてと驚愕していると、また頭の中へ声が響いた。  ――オネガイ、トミーガ危ナイ……。 「トミー? 観客に誰かいるの?」  観客席を見渡してみるが、大勢の人々の中に外人の子供がいるかどうか、よくわからない。  ――ボクニ乗ッテ。スグニ、オネガイ……。 「乗るのはもうちょっと待って。次はネローと前原先輩の演技で、ユアンと僕はその後だからね」  背中を撫でながら小声でユアンに話しかけると、脳内でユアンの声が大きく響いた。  ――急イデ、ハルト! 早ク乗ッテ!  キンキンとした声に驚き、晴斗は思わずユアンの体から手を離してこめかみを押さえた。 「なんて声を出すの、ユアン……頭に響いたよ」  その必死さに負けて、晴斗は「わかった」とつぶやくと、ユアンとのジャンプを先に入れるように、前原先輩に身振り手振りで伝えた。 「OK、先に立花くんのジャンプね。頑張って」  笑顔で頷き、口ぱくでそう伝えてくれた前原先輩にほっとしながら、音響室の中村先輩にも、先に自分が飛ぶからと合図を送る。  彼は渋面になったが、しぶしぶという感じで顔の横に丸を作ってくれた。 『――さあ、次は立花トレーナーとユアンが一緒にジャンプします』  中村先輩のアナウンスで曲調が変わった。晴斗がユアンにハンドサインを出す。 「よし、僕とユアンのジャンプだ。行こう」  ――ハルト……トミーヲ助ケテ……。 「ん、よくわからないけど、ほら、加速して。ジャンプするよ」  ユアンの背に乗り、水しぶきを上げて加速すると、観客がその速さに沸いた。  何度も練習したメインのジャンプだ。晴斗はユアンと呼吸を合わせる。 「一、二の三!」  スピンしながらユアンが飛び上がると、晴斗は両手を上げて空中で一回転する。 「わぁぁぁ、すごい……!」  高いジャンプにお客さんから大歓声と拍手が起こった。刹那、頭の中にユアンの声が響いた。  ――ハルト、トミーヲ……助ケテ……君ハ、別ノ世界デ…………。 「ユ、ユアン? え、なに?」  ユアンの声が遠ざかり、聞こえなくなった。  次の瞬間、空中で一回転してプールへ飛び込もうとした晴斗の視界に青空が飛び込んでくる。空間がグニャリと捻じ曲がり、目を見開いた。 「あ……、な、なに……?」  晴斗の体がそのねじれた時空の渦に吸い込まれるように飲み込まれてしまう。  観客の大きな歓声が遠のいて、一瞬だけ、視界の端で心配そうにこちらを見つめているユアンが見えた。  ――ハルト、大好キ。オネガイ……。 「ユアン……! ま、待って、どうなっているの? うわ、真っ暗! ここは……っ」  体が何かに引っ張られる。じきに世界が暗転し、晴斗は漆黒の中でそのまま意識を手放した。

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