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第5話

 2  鳥の鳴き声が聞こえ、晴斗は「ん……」と呻くように声を上げ、ゆっくりと瞼を開いた。  青空が見える。眩しい日差しに手をかざしながら、確かショーの途中で意識を失ってしまったのだと記憶を辿り、上半身を起こして唖然となった。 「えっ……ここは?」  自分はショーが行われているプールサイドにいるものと思っていた晴斗は、茶色の双眸を限界まで見開いて、目の前に広がる景色を見つめた。  なだらかな草原が続き、針葉樹の森が遠くへ見える。ビルも電柱も看板もない。舗装されてない道路が山の麓へ蛇行しながら続いている。  まだ寝ているのだろうか。夢の中のような気がしないでもない。 「ここはどこだろう……なぜ僕はこんな田舎へ……信じられない」  いや、信じられないと言って、呆然となっている場合ではなかった。晴斗は水族館の仕事を思い出し、ハッと我に返った。体を両手で触ってみるとウェットスーツは乾いていて、どこも怪我をしていないようでほっとする。 「早く戻らないと。ショーはどうなっただろう。午後からの公演に間に合うかな」 あわてて周囲を見渡しバス停を探すが、草原しか見えない。  ここは一体どこなんだろう。東京から遠いのだろうか。晴斗は焦燥に駆られて大きな声を出す。 「おーい、誰かー、ここはどこですかー」  耳をすませるが、さわさわと周囲の木々を揺らしながら風が吹き抜けるだけで返事はない。それに先ほどから人の姿も見えない。 「誰か――! おーい! ……あっ」  草原の向こうの道から砂埃が上がっている。近づいてきたのはゴトゴトと音をさせる黒色の馬車で、引いているのは栗毛の馬だ。 「なに、あれ……馬車?」  瞠目している間に、馬車は草原の中の道をどんどん進んでいく。前部に乗って馬を操っている御者は黒色の帽子をかぶり、異国風の上下が繋がった青色の服を着ている。髪の色は銀色だ。 「……人がいる。あの人に訊こう」  晴斗が「すみませーん」と大きな声を出して駆け寄ると、馬車が停まった。御者は外国人風の顔をした中年男性で、彼は晴斗を見ると目を丸くした。 「〇§▼±〇±――!」  男が晴斗の方を見て何か叫んでいるが、何を言っているのかまったくわからない。 「えっ? あの……? すみません。ここはどこでしょうか。あ、英語で言わないと……えっとエクスキューズミー、フェアー・アム・アイ? これでいいのかな」  近づきながら話しかけると、御者が顔を強張らせて馬車から飛び降りた。ものすごい剣幕だ。 「ぼ、僕は怪しい者ではありません。ドゥーノット・アフレイド、アイム……」 「――Ψδ〇§▼±〇§▼±!」 「え……これって何語? 全然わからない……」  怒ったように叫ぶ御者にこれ以上近づくことができず、晴斗は足を止めて戸惑う。  そういえば、晴斗はウェットスーツのままだ。確かにこれでは怪しいと思われても仕方がない。 「あの、これは水着なんです。ズィスイズ、スイムウェア、OK?」 「§▼±! 〇§▼!」  何か叫びながら、業者が懐から香炉のようなものを取り出した。石を打ちつけて火を点けると、草の根のようなものを入れる。それらはものすごい早業で、晴斗は唖然と見つめることしかできなかった。  じきに香炉から青紫色の煙が音もなく上がり、ゆらゆらと揺らめきながら勢いよく昇っていく。 「±〇§▼Ψ!」  煙が出ている香炉を地面に置くと、御者は逃げるように馬車に乗った。 「ま、待ってください。ここは一体……」  砂埃を上げて馬車が遠ざかり、晴斗は怪し気な青紫の煙が出ている香炉とともにぽつりとその場に残された。 「……ごほっ、ごほっ、なんだろう、この煙……それに馬車って……?」  口を塞いで青紫色の煙が漂う香炉から離れると、晴斗の頭の中に直接話しかけるように、どこからともなく声が響いた。  ――ハルト……川へ急イデ。 「その声は、ユアン!? ユアンなの……? 君は大丈夫だった? 今どこにいるの?」  ジャンプの途中で何かが起こったので、ユアンがどうなったか心配だった。  ――ボクハ大丈夫。ハルトハ今、異世界ニイル……。 「ユアンが無事でよかった……えっ、ここが異世界?」  ――ソウ、急イデ、ハルト。 「ねえ教えてユアン! どうやったら帰れるの? 僕、仕事が……」  ――オネガイ、トミーヲ助ケテ。リツィ川ヘ急イデ……。 「トミーって? リツィ川ってどこ? こっちの人と言葉が通じないんだ。わけがわからないよ……」  ――言葉ハ、リツィ川ノ清水ヲ飲ンデ……ワカルヨウニ……ナル、ハズ……。 「声が小さくなったよ、ユアン? 待ってよ」  ――リツィ……ヘ……急……デ、トミー……テ……。  ユアンの声が遠ざかり、じきに聞こえなくなると、晴斗は不安で泣きそうになった。落ち着けと自分に言い聞かせて深呼吸し、ユアンの言葉を思い出す。 「確かリツィ……川へ急いでって。そこで清水を飲むと、言葉がわかるようになるって……えっと川……」  目を凝らして周囲を確認すると、なだらかな草原を越えたところへ大きな川が見えた。 「あった、川だ……! あれがリツィ川?」  晴斗はそちらへ向かって走り出す。大きな岩と低木を抜け、舗装されていない道は走り慣れていないので何度も転びそうになりながら川まで駆けた。岸に沿って立つと川幅が広く、深緑色の川はかなり深そうだ。 「こ、これがユアンが言ってた川なの……? あ、岩から水が」  川の近くに大きな岩が重なっていて、その間から澄んで透明な液体が湧き出ている。 「これが清水? 飲んでも大丈夫かな……」  喉が渇いていたこともあり、両手ですくってこくりと飲んだ。 「……あ、美味しい」  冷たい湧き水が喉にしみ、もうひと口飲んでふぅと息を吐く。これを飲むと言葉が理解できるとユアンが言っていたが、頭が少しすっきりした気がするものの、特に体に大きな変化はなかった。 「……てぇ……」 「え?」  遠くで何か声が聞こえた気がして川へ近づくと、何かが流れてくるような音が近づいてくる。 「……た……えっ」 「人の声?」  川の上流を凝視していると、小舟が勢いよく下ってきた。その中に三歳くらいの子供がひとりで乗っていることに気づいて晴斗は息を呑む。  小さな子供が小舟の縁に掴まり、懸命に声を上げている。金髪の子供だ。 「たしゅけてぇぇぇ!」  ――言葉がわかる。  先ほど湧き水を飲んだ影響だろうか、子供の言葉が聞き取れた。同時に今の状況を理解し、晴斗は顔が強張るのを感じた。

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