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第6話

「そのままじっとしてて! すぐに助けるよ!」  かなりの急流なので、今にも小舟がひっくり返りそうだ。ウェットスーツの晴斗はすぐに川の中へ水しぶきを上げて飛び込んだ。 「くっ」  水温は低くないが思ったより深く、流れが速くて体が持っていかれそうになる。  泳ぎには自信があるが、川の激流が見た目よりも大きくて、強い水流に体を押されてひやりとする。流されていく小舟の方へと、方向を変えて懸命に泳いだ。  立ち泳ぎで押し流されながらも小舟に近づくと、子供が気づいて声を上げた。 「お兄たん、たしゅけてっ」  こぼれ落ちそうに大きく目を見開いている小さな子供へ晴斗は両手を伸ばした。 「僕に掴まって!」 「あいっ」  晴斗の言葉も彼に伝わるようだ。小さな両手をこちらへ懸命に伸ばし、小舟から身を乗り出した。子供を胸に強く抱き留めると、数秒後、轟音とともに流れが速くなり、小舟が岩にぶつかってひっくり返った。 「危なかった……」  助けるのが少しでも遅ければ、この子供は水中に投げ出されていただろう。  よほど怖かったのか、子供の小さな体がぷるぷると震えている。晴斗はぎゅっと両手で子供の体を抱きしめ、慎重に岸へと泳いだ。  川からよじ登ると、がくがくする膝を叱咤しながら立ち上がり、草地へ子供を下ろす。 「もう大丈夫だよ」  晴斗の声に子供がおずおずと顔を上げた。日差しが反射する金髪と、緑色の澄んだ瞳をした可愛い男の子だ。  白色のシャツに藍色のサロペットという異国風の服装はどこか高級な雰囲気だが、ずぶ濡れになっている。 「冷たくない? 怪我は?」 「……」  見たところ子供は怪我もないようでほっとする。髪にも水がかかっているが、日差しが強くからりとしているのですぐに乾くだろう。 「お、お兄たん……」  じっと晴斗を見上げている子供の緑色の瞳が潤んで、涙がぽろりとこぼれ落ちた。 「こ、こわかった……うわぁぁん……、ああぁぁん……っ」 「怖かったね。無事でよかった」  ぽろぽろと大粒の涙が子供のぷっくりとした頬を伝い落ちる。泣きじゃくる子供を優しく抱き上げると、晴斗の胸に濡れた頬を押し当てて、しがみついてきた。 「びっくりちた……っ、ふねが……みじゅが……っ」  晴斗は子供を落ち着かせようと、小さな背中をさすった。 「大丈夫だよ」  ぐしゅぐしゅとしゃくり上げている子供を抱きしめて、晴斗はすっと息を吸った。 「お兄ちゃんが歌うから、泣き止んで」  晴斗は子供をあやすように、耳元で歌い始める。 「タンタンタンー、泣き虫弱虫、よっといで。ここはサンサン水族館ー、みんなのサンサン水族館ー、元気を出して、みんなよっとで……」  サンサン水族館のテーマソングだ。毎日聞いているが、元気が出る感じで晴斗は好きだった。 「はう……」  晴斗の歌声に目を丸くして泣き止んだ。 「よかった。落ち着いてきたみたいだね。さあ服を乾かそう。ここへ座って」 「あい」  晴斗は河川敷の草むらに腰を下ろした。ふわりと優しい風が吹き抜け、子供が隣にちょこんと座る。日差しがぽかぽかして気温が高いので、早く服が乾きそうだ。  子供がころんと草の上に横になった。 「きもちいいね、お兄たん」 「そうだね」 「あ……ボク……パパにおこられる」  父親のことを思い出した子供が、ぱっと起き上がり、小さな肩を落とした。 「どうして?」 「おとこは、なかないって……」 「そっか。僕も同じことを言われたことがあるよ」  父方の祖父から男らしくしなさいと言われ続けた自分と目の前の子供が重なり、晴斗は小さく微笑んだ。 「でもね、泣くことで気持ちが落ち着くこともあるんだよ。だから、男だって泣いていいと僕は思うんだ」 「お兄たん、しゅき!」  ぎゅっと抱きつかれて、可愛いさに晴斗は目を細めた。  晴斗のウェットスーツは、速乾性があるのでもう乾いているが、この子はどうだろう。 「日差しが眩しいくらい照っているし、気持ちのいい風が吹いているから、もう服は乾き始めているね。冷たくない?」 「うん、だいどーぶよ、お兄たん」 「僕は晴斗だよ。えっと、ハルト・タチバナ。ぼうやの名前は?」  優しく頭に手を置いて名乗ると、彼は顔を上げてにっこり笑った。 「ハルトにーたん、ボクはトミーよ」  ひとりっ子の晴斗は、ハルトにーたんと呼ばれるのは初めてだ。くすぐったさと嬉しさで、晴斗は小さく笑って頬を掻いた。 「よろしく、トミー……あれ? ちょっと待って、トミーってどこかで……あっ!」  思わず大きな声が出てしまった。トミーが目を丸くしている。 「どうちたの?」 「そうだ、ユアンが言っていた……! トミーを助けてって。そうか、君のことだったのか」  どうやって異世界のトミーが小舟で流されていることに気づいたのかわからないが、ユアンはきっとこの子を助けてほしくて、晴斗をここへ送ったのだろう。 「トミーはユアンを知っている? 僕とコンビを組んでいる雄のバンドウイルカなんだ」 「ゆあん……?」 「イルカだよ。トミーのことを知っているみたいだったから」 「ボク、ちらない」  小さな頭が左右に揺れる。 「そう、知らないのか……」 「うん」  確かに、トミーを助けてとユアンは言っていたし、トミーは危険な状態だった。この子を助けてという意味で間違いないように思うが、まだ小さいからわからないのかもしれない。 「トミーはいくつなの?」  尋ねるとトミーは小さな胸を張って答える。 「しゃんたいでつ」 「三歳か。おりこうさんだね。トミーのおうちはどの辺?」 「あっちのほう」  小さな手で指差した方向は家の屋根らしきものが点在しているが、聳える山に隠れてよく見えない。 「トミーのご家族は?」 「パパいる! 大しゅき」  トミーがにっこり笑った。怒られると心配していたが、大好きと言うところを見ると、厳しいだけの父親ではないようで、よかったと安堵する。 「それからロレンツにーたんも、マーサたちも大しゅき」  笑顔で話す可愛いトミーの声に、晴斗は頬を緩めて頷く。 「そろそろ服も乾いてきたね。これから僕が家まで送って……」  家までトミーを送っていくと言いかけた時だった。  上空から「グアァァァ――ッ」と禍々しい鳴き声が響き渡り、晴斗は頭上を見上げ、びくっと肩を揺らした。 「変な声が……あっ、大きな鳥……!」  信じられないくらい大きな鳥が大空を飛んでいた。 「あー、ノアールー」  唖然となっている晴斗のそばで、トミーが無邪気に大鳥に手を振っている。  それに気づいたのか、鳥がこちらへ向かって急下降してきた。ものすごいスピードで逃げる間もない。 「うわ、こっちへ来る……! トミー、手を振っちゃだめだ。じっとして」  咄嗟にトミーを抱きしめる。砂埃を上げながら大きな鳥が河川敷に着地した。 「ひ……っ」  近くで見ると鳥はさらに大きく、衝撃的だった。全身を白銀色の艶やかな毛で覆われ、大きな翼をばさりと羽ばたかせている。  嘴がなく口には牙が見える。小学生の頃、図鑑で見た恐竜時代の鳥によく似た牙を持つ大鳥と対峙していることが信じられず、晴斗は固まった。  大鳥が鋭い牙を剥き、「グアアアッ」と鳴くと、振動がびりびりと体に突き刺さり、晴斗の背中を汗が伝い落ちた。  ――どうしよう! いざとなったらトミーを抱いて川へ飛び込む?  流れが急だが、自分がしっかり抱いていれば川の中でも大丈夫だと思う。怖気づきながら凝視していると、逆光でよく見えなかったが、大鳥の背中に人が乗っていて、結構な高さがあるにもかかわらず、ひらりと飛び降りた。  それを見て、トミーが大きな声を出した。 「パパ!」 「えっ、パ、パパ? なんで鳥に乗っているの? あ、待って、トミー!」  引き留める間もなく、トミーが父親と大鳥の方へ元気よく駆け出した。 「トミー、無事か!」 「パパ!!」  大鳥から飛び降りたトミーの父親は見上げるほど長身だ。  ――あの人がトミーのパパ……?  日差しを浴びて煌めく金色の髪が眩しく、端整な顔立ちは今まで晴斗が見たこともないほど美麗で、外国人モデルのような均整の取れた八頭身と華やかな容貌に目が釘付けになった。澄んだ青色の双眸はサファイアのように輝くアイスブルーで、銀糸の刺繍が肩と胸と袖に施された凛々しい黒色の詰襟服を着て、腰に長剣を挿している。  足元は拍車のついた漆黒のブーツで、孤高の戦士のような凛とした雰囲気を纏った、精悍で男らしい彼にトクトクと鼓動が跳ね、晴斗は薄く口を開けて見惚れていた。  トミーが可愛い顔をしているのは、この美麗な父親の遺伝だろう。  彼はトミーを強く掻き抱いているが、この美形親子がいるだけで、何もない田舎の景色までもが、幻想的な絵画の世界にいるように見える。思わず晴斗は感嘆のため息をついていた。

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