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第三章 狼は愛を乞う 5

 ミシュランの二つ星を獲得したレストラン。今日はVIPしか入れない特別な個室で創作フレンチだ。白いテーブルクロスがひかれ、ミネラルウォーターが入ったワイングラスと美味そうな料理が乗った皿が並び、個室には二人だけ。俺の目の前には艶々とした黒髪ロングの可愛い顔をした女が、上品そうに鯛のポワレを口へ運んでいる。 「ん〜! 美味しい〜! 身がジューシーで鯛の旨味が凄いですね」  女はまるで食リポでもするかの様に感想を述べた。だが確かにその通りだ。皮目はパリパリなのに周りの身はぷりっとしていて、真ん中五ミリほどは半生で、そのグラデーションに俺も思わず唸った。 「穂乃果さんのお口に合って良かったです。この後の肉料理も絶品なんですよ」 「悠矢さん、本当に高校生ですか? スーツ姿でそんな事言われちゃうと大人みたい。隣に並ぶと私、子供っぽくて恥ずかしい。釣り合ってないです」  甘ったるい声の女は、自分の着ている白いワンピースを見て、恥ずかしそうに顔を赤らめた。 「はは。僕も穂乃果さんと同じ高校生だから、料理の事なんてあまりわかってないですよ」 「ふふっ。でもここの料理全部美味しいです」  俺の目の前に座る女の名は一ノ瀬穂乃果。将来の結婚相手で、同い年。昔から結婚相手が決まっているのは知っていたが、こうして会食を取るのは三回目。二ヶ月に一度くらいのペースだ。  結婚するのはまだまだ先だが、少しずつお互いを知っていた方が良いだろうと親父達が勝手に決めた。全く良い迷惑だ。こんな面白みのない相手と飯を食っても何も楽しくないし、スーツ姿でいるのも、軽くセットされた髪も窮屈だ。  (莉玖と飯食いてーな…このポワレ、あいつ好みの味だな。食べさせたい…)  別荘から病院に直行した莉玖は、疲れの所為からか帰ってきてもぐっすりと寝ていて、家を出る前にあいつの寝顔にキスだけしてきた。  莉玖はリラックスしているとすぐに起きないので、正直反応は期待していなかったが、唇が触れると「ん…」と微かに動いた。目を開けて欲しくて、もう一回、今度は少し長めにキスをした。すると背後にいた如月に「もうそのくらいで」と釘を刺され、莉玖から引き剥がされた。 「あとちょっとぐらい良いだろーが。お前が車用意する間、まだ時間あるだろ」 「悠矢様。今日、私はついて行きません。代わりに松下が運転しますので、もう車の用意は出来ていますよ」  如月が来ない? 何でと訊ねると「午後から有休を貰ってます」と如月は笑顔で返した。有休? そんなの俺は聞いてないんだが。 「今は十七時なのでとっくにプライベートな時間です。今日は何をしようかな…」  如月は寝ている莉玖に顔を近づける。何をしようかなって何をする気なんだ? 「お前、まさか俺が居ない間に莉玖の事襲う気か! 何が有休だ! 俺のサポートがお前の仕事だろーが! 有休なんて俺が許可しねぇぞ!」 「私の雇用主は貴方のお父様なので。許可したくなければ早く社長になって下さい。それに主人のペットの面倒も立派なお仕事です。さぁさぁ早く行ってください。女性をお待たせしてはいけませんからね」  部屋の外へと簡単に押し出してくる如月の手を掴んで「話はまだ終わってねーぞ!」と荒ぶるも、彼は笑ったまま俺の手を離そうと力を入れる。美形な顔からは考えられない程の怪力で、こんな力で莉玖を襲われては堪ったもんじゃないと、負けじと力を入れ返す。  それに莉玖の事をまたペットだと揶揄しやがった。ペットじゃないと言っただろうが。 「如月、いい加減にしろよ! お前も俺と一緒に店に行くんだよ!」 「すみません。私は只今休暇中ですので。松下! 悠矢様を頼みましたよ!」 「ちょ…如月ッ!!」  そのまま別の使用人、松下に引きずられ、車に乗せられてここへ強制連行された。  莉玖の部屋から締め出される時、如月は薄く笑っていた。絶対に何かする笑いだ。俺には分かる。  (あー早く帰りたい。あとは何の料理だ? 今魚だから、ソルベと肉と、デセール…アヴァンとグラン…一時間以上はかかる…クソ、またセックスとかしてたら…あーッ! 帰りたい!!) 「悠矢さん、少し雰囲気変わりました?」  脳内が如月と莉玖のセックスシーンを占めていた俺は、穂乃果の声で現実に戻った。  危ない、もう少しで挿入シーンだったから声を荒げる所だった。 「そうですか? 僕自身は、特に…」 「何だか表情がころころ変わってます。ニヤけてたのに、ついさっきは怒ってるみたいで。そんな悠矢さんの顔見るの、初めて」  穂乃果はヘアアイロンで巻いた毛先を跳ねさせ、けらけらと笑っている。俺はそんなに顔に出ていたのかと少し恥ずかしくなる。莉玖の事になると、いつもこうだ。今迄出来ていた感情のコントロールが上手くいかない。 「ほら、今度は顔が赤い。思ったよりも感情的なんですね」 「思ったよりもって、酷いなぁ。僕の事機械か何かだと思ってたんですか?」  まるで別人の様な喋り方の自分にうんざりしながらも、表面上は笑顔でポワレを口に運ぶと、穂乃果は「そうです」と呟いた。意外にノリがいい女だな、と目線を合わせると彼女の顔から笑いが消えていた。俺の表面的に上げていた口角も、通常に戻る。 「悠矢さんは初めて会った時からいつも心がそこにないみたいで…張り付いた様な笑顔も苦手だと思ってました」  彼女の言葉に、両手に持っていたカトラリーをハの字に置いて、ナプキンで口を拭った。 「僕の事、嫌いですか?」 「い、いえ! そういう意味ではなく…でも、怖いって思ってました。何を考えているか分からなくて…将来の結婚相手だと思うと余計に…でも、今日の悠矢さんは好きです」  『今日の悠矢さん』とは一体誰の事だ。この女の苦手な『張り付いた笑顔の悠矢さん』と、この女が好きだと言う『自分の事を〝僕〟と言って喜怒哀楽を見せる悠矢さん』はどれも本当の俺ではない。この女の中には『明日の悠矢さん』も存在するのだろうか。 「だから、安心しました。本当の貴方がそんな人だと分かって」  『本当の貴方』って何だろう。俺ですら、まだ自分の知らない自分を発見する日々なのに、何を分かった気になっているんだろう。  ああ、何てつまらない会話。段々真面目に言葉を返すのが疲れてきた。興味のない女の興味のない話を聴くほど無駄な時間はない。こんな話を聞いている間にも、如月が莉玖を襲っているかもしれないのに。それに、この女に俺を好きになられても困るのだ。寧ろ嫌ってくれないと、後々この結婚を破談にしにくい。  俺は、莉玖と生涯を共にするのだから。  西園寺莉玖だけが、俺の欲しい物。だけどあいつは手に入れたと思っても、いつかするりと俺の腕から簡単に離れてしまいそうで、怖い。   「張り付いた笑顔、ね…当たってるよ。さっきまでの俺は、本当の俺じゃねーから。〝僕〟なんて喋り方の男、嫌だよな。俺も無理」  急に言葉遣いが変わった俺に、穂乃果の顔はキョトンとしている。  もう今日結婚相手を解消してもらっても構わない。早く彼女の中の『本当の悠矢さん』をぶち壊そう。こんなつまらない女とあんな言葉遣いで会話を続けるのが疲れる。俺は早く家に帰って、莉玖と会話がしたい。  目の前の女は可愛い系で俺の好みではないし、やはり莉玖の顔が一番だ。小さな顔に長い睫毛がついた二重の瞳、スッとした形の良い鼻。薄いながらも艶のある紅い唇に、毛穴が見えないくらい陶器の様に滑る肌。男の癖に体毛が薄いのか髭も産毛みたいだ。隣に居ると何処かしら肌を触りたくなってしまう。身体中が性感帯の敏感な身体に、奥まで簡単に男の陰茎を咥え込むのに、締まりが良いやらしい孔。  俺好みの顔と身体。彼を前にして食べるなら何だって美味しい。早く、彼に会いたい。 「はぁ…ネクタイって何でこんな堅苦しいんだ?」  フォーマルな格好は首が苦しい。いつかはこれを毎日着ることになるなんて、俺にはまだ想像がつかない。  ネクタイをゆるめ、首元が大分楽になった俺は、ハの字のカトラリーを手に持って再び鯛のポワレを口に運んだ。自分の皿の上がやっと綺麗になった所で、穂乃果に視線を向けた。彼女の皿の上には、まだ三分の二程ポワレが残っている。 「食べねーの?」 「あ、いえ! 食べます」  穂乃果はさっきよりも大きく身を切り、大口を開けて口の中へ放り込んだ。 「ふはっ…でっけー口…」  いつも少しずつ切り分けて食べる印象と違って思わず笑ってしまった。穂乃果はもぐもぐと食べながら「すみません…」と恥ずかしそうに手を口に添えて隠している。 「慌てなくて良いって。穂乃果のペース考えなくて悪かったな…あ、やべ。呼び捨て…」  気が緩みすぎて脳内での呼び名のまま口に出してしまった。それは流石に失礼すぎる。 「良いですよ、穂乃果で。ふふっ悠矢さん喋り方変わりすぎて驚いちゃった。言葉遣い、結構悪いのね」  ウェイターが目の前の空いた皿を下げた。ようやく次の料理に進める。 「今は普通だろ。まぁ、バカとかボケとか言うから言葉遣い悪いのは否定しない」  目線を自分の膝に向けると、ナプキンが少し縒れている。 「何だか悠矢さん、思ってたより全然違う人ね。私、そっちのあなたの方が好きかも」  穂乃果の言葉にナプキンを直していた俺の手が止まり、正面の彼女の顔を見た。 「本当にあなたの事、好きになっちゃいそう」  ウェイターがテーブルに、肉料理前の口直しのレモンのソルベを運んでくる。  俺はまだ、家に帰れそうにない。

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