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第四章 狼は愛に溺れる 6
日本料理の美味い老舗の料亭。俺は今日も全く楽しくない会食に来ている。広い座敷で胡座を掻き、少しずつ運ばれてくる料理を口へと運ぶ。今日もスーツは堅苦しいのでネクタイは早々に緩めた。しかし、食べる相手が莉玖じゃないと本当に退屈だ。
酒でもあればまだこのつまらなさも解消出来るだろうに、残念ながら俺はまだ高校生。
あと四年程の年齢に、一体何の違いがあるのだろうか。
「悠矢さん…悠矢さん!」
「何だよ。聞こえてるって」
「……聞こえてるなら、あの西園寺莉玖という人は、貴方にとって何ですかって質問に答えてください!」
穂乃果は運ばれてくる料理に手もつけず、盗撮した写真を鼻息を荒くして、俺へと見せる。写真に写っているのは、俺と莉玖が車の中で抱き合ってキスをしている写真。盗撮とか完全に犯罪じゃないか。
「ンなの、それ見たらわかるだろ。俺の大事な奴だよ」
「大事って…悠矢さんゲイなんですか?」
「前は女も抱いてたから…バイ?」
穂乃果は目を覆って崩れ落ちる。目を覆ったまま「ちょっと待って下さい」という言葉を連呼しているが、俺は一体何を待てばいいんだろう。
面倒臭いので気にせずに焼き物を食べていると、起き上がった穂乃果が莉玖の別の写真を目の前に翳 した。
しかし写真で見ても莉玖の美しさがしっかりと収められていて、思わず見惚れてしまう。多分、登校中の車を降りた場面だ。
遠くを見つめる彼の顔を見て、本当に何処かに行ってしまいそうで、また不安になる。
「こ、この男と悠矢さんが恋人、ですか?」
「だからそう言ってるだろ。お前との結婚無理なの、わかった?」
目の前の牡蠣の田楽焼を箸で摘む。流石老舗料亭。美味い。ああ、この牡蠣を莉玖にも食べさせてやりたい。
「や、山田グループはどうするんですか…? 跡継ぎは…」
跡継ぎ。それは俺も考えたが、いざとなれば弟の悠二に社長の座を譲ってもいいと思っている。親父は多分納得しないだろうが。
この間の夕食の時も穂乃果との結婚は大事だと何回も言われて耳にタコが出来た。あの親父に莉玖との事を伝えたら、絶対に反対されるだろう。
「お前が考える事じゃねーだろ。とりあえず、お前は俺を諦めろ」
「く、悔しいけど、男でもこんな綺麗な顔の人に太刀打ちできる気がしません…でも、貴方の事をまだ諦める事も出来ません」
穂乃果は少し涙目になった。ほら、こういう所が面倒臭いんだ。
「お前はどうしたら諦める訳? 俺はもう莉玖以外に勃たないから、無理」
「勃っ──」
穂乃果の顔は急速に真っ赤になった。こんな言葉ぐらいで林檎の様に顔を赤くする女に、俺の股間は絶対に反応しない。
「勃たなきゃ女としてのプライドはズタズタだろ? もう諦めろ」
下を向いて涙を溜められても、俺は慰める事なんて出来ない。この場合優しくする方が彼女にとって酷だ。
「じゃ、じゃあ悠矢さんはこの方に諦めろって言われて、簡単に諦められるんですか?」
「それは無理だ。あいつに諦めろって言われたって離さねぇよ」
次の料理は河豚の香煎揚げ。能登の粗塩をつけて食べるか、檸檬を搾って食べるか迷う。
「ほら、無理でしょ。私と一緒です」
一緒。穂乃果の言葉に、俺の香煎揚げを摘んだ箸が空中で止まる。
俺と一緒なら、あの気持ちをこの女は言語化してくれるのだろうか。あの相反する汚い感情を。
「なら、お前は俺を殺したくなるか?」
「え…? ころ、す…?」
「好きで堪らなくて、自分以外を見て欲しくなくて、何処にも行かせたくなくて、ずっと俺を見ていて欲しいから殺したくなる事があるのかって訊いてんだよ」
「何言って…」
「傷つけたくないのに、殴って言う事を聞かせて! 自分を無理矢理見てもらいたくなる事、お前はあんのかよ!?」
「お、大きな声ださないで下さい…」
「……教えてくれよ…俺と同じ気持ちなんだろ…? どうしたら優しく出来んだよ…」
優しくしたい。傷つけたくない。なのに、感情が高まるとどうしてもあいつを傷つける。
「頼むから、教えてくれ…俺は…あいつの事…失いたく、ない…」
喋っている間に莉玖の顔が沢山浮かぶ。
そう、失いたくない。あいつが俺を嫌っても逃したくない。好きだという気持ちが溢れて、まるで海の底で踠いてる様に苦しい。だけどあいつを抱きしめれば、底から這い上がれて息が出来る。だから俺はあいつが、莉玖がいないともうダメなんだ。
「……悠矢さん、泣かないで。ごめんなさい、どうしよう…」
「は…何が…」
穂乃果は「男の人、泣かせちゃった…」と困惑する。泣いてる? 誰が? 視線を下に向けると、顎先からぽたぽたと皿に滴が落ちていく。
俺の頬から、静かに水滴が流れている。マグマの様な感情が、反対の性質になって俺の身体から排出されていく。
(俺、また泣いて…。どうして莉玖の事を考えると泣いちまうんだ。子供か…)
ぐいっとその涙を拭き取ると、その動きで肩に痛みが走り、莉玖が昨日つけた痕が服に擦れる。だけどこんな痛みすら嬉しい。あいつが俺にくれるもの全てが愛しい。
涙を拭きとった後、如月が襖を開けて入って来た。彼はすみませんと穂乃果に軽く会釈をすると、俺だけに聞こえる様に耳打ちした。その言葉に、すぐさま身体が反応して立ち上がる。
「如月! 行くぞ!」
「あの、私だけ様子を見に行ってきますので、悠矢様はまだこちらに残っていて下さい」
「そんな事聞いてじっとしてらんねーよ! 穂乃果、悪りぃけど今日は終わりだ。急用が出来た」
「あ、はい…」
「すみません穂乃果様。失礼します」
「如月! ボケッとすんな! 早く車回せ!」
琴の音色が鳴り響くだけの料亭の静かな廊下をドタドタと走って車へと向かう。如月の冷静さに腹が立って怒鳴り散らし、病院へと車を急がせる。
〝莉玖様が階段から落ちて、病院へ運ばれました〟
やっぱりあいつを一人になんかするんじゃなかった。あの綺麗な身体に、俺がつけた以外の傷痕を残したくない。
如月いわく、頭部から出血はしたらしいが命に別状はないらしい。だけど、この目であいつの無事な姿を見なくちゃ安心できない。
病院に到着するとすぐに車から降りて、一目散に救急外来の受付へ入る。人の姿は少なくて、待合室の長椅子に座った見覚えのある後ろ姿を一瞬で見つけた。頭には包帯を巻いている彼の正面へ回り込んで顔を見ると、酷く怯えたような莉玖の顔。
高い所から落ちた所為か、足首と腕にも包帯が巻かれていた。軽症ではないが今日中に帰れるそうだ。
安心した俺が頬を触ると、莉玖は身体をびくつかせるだけで何も言葉を発しない。
「お前何やってんだよ…でも無事で良かった…」
ぎゅっと抱きしめると莉玖の身体は小刻みに震えている。さっきからあまりの怯えように流石に心配になる。それに全然喋ってくれない。
「大丈夫かよ。すげー震えてるけど」
抱きしめた身体を離して、彼の顔を見る。
「……だれ?」
「は? 誰って何が。あ、スーツ着てるからか? お前その冗談つまんねぇぞ〜」
「おにいちゃんは、だれですか……?」
身体を震わせ、怯えた表情で俺を見つめる莉玖。その彼の口から出た言葉に、俺の身体が固まる。
彼が今何を言ったのか、俺には全くわからない──。
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