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第五章 愛を忘れた狼 1

「お兄ちゃん? 何言ってんだよお前、俺の顔忘れた訳じゃねぇだろ…?」  固まった身体を動かして、俺は無理矢理笑顔を作る。だけど莉玖は「しらない…」と呟くだけ。莉玖の言動に違和感を抱き、胸がざわざわとし始める。どうしていいか分からずに彼を前に無言になっていると、松下から状況を聞いた如月が俺の横に来た。 「悠矢様、あの…」 「なぁ、如月…莉玖の様子、なんか変なんだけど…」 「それが…莉玖様はどうやら記憶障害を起こしているらしくて…」  如月の言葉に更に輪をかけて混乱する。記憶障害って、それはつまり…… 「私達の記憶がないって事です」 「な、何言ってんだよ…? 俺らの事わかんねぇって事か? 自分の事すらわかんねぇのかよ?」  俺が状況を聞いてもいまいち飲み込めない中、如月は莉玖に目線を合わせて蹲み込んだ。 「柏木莉玖くん、でいいのかな?」  質問に莉玖はコクンと頷いた。 「おい、如月。名字は西園寺だろ?」 「先程検査した時にそう答えたそうです。多分母親の旧姓だと思います。医師によると、莉玖様は六歳まで記憶が後退しているみたいです」 「ろ…」  六歳だって!? 大きな声で反応すると目の前の莉玖の身体がビクッと揺れた。  目の前の莉玖は十六歳なのに、中身が六歳。こんなの、すぐに理解しろって言う方が無理だ。  付き添っていた松下の話によると、莉玖は夕食を食べる為にダイニングへ降りようとして、下に転落した。凄い音がして松下が階段を見にいくと、頭から血を流し、気を失った莉玖が倒れていて、慌てて救急車を呼んだとの事。  先程病院で目を覚ました時、松下からの問いかけに答えず「おにいちゃん、だれ?」としか言わなくて、医師が検査した所、記憶が六歳の頃まで後退している事がわかった。  勿論、俺の事なんて覚えていない。自分の身体が大人になっている事にすら戸惑っているらしい。 「鏡の中に写っているのは、誰か分かるかな?」  如月が莉玖に手鏡を渡し、問いかける。莉玖は「しらないひと…」と泣きそうになりながら答える。周りは知らない人間ばかりで、自分の姿が変化している事に、彼はまだ頭が追いついていない。 「とりあえず、屋敷に帰りましょう。莉玖様、不安でしょうけど、私達についてきてくれますか?」 「おかあさんは…?」 「お母様は訳あってここには来れません。とりあえず、貴方が今住んでいる家に帰ります」  一見頭部の出血が酷かったそうだが、傷口はホッチキスによる止血で済んだらしく、入院はしなくて良いそうだ。  脚を怪我しているので一応松葉杖を渡したが、莉玖は上手く使いこなせない。無理矢理抱き抱えて車へと載せたが、抱き抱えている間も無言で、車内でも莉玖は後部座席の端で怯えている。 「あの、ど、どこにいくの? おれがすんでる家、こっちじゃない…」 「何処って…俺の家に帰るんだよ」 「おれ、家にかえれないの…? なんで…? おかあさんは…?」  いつもの掠れた莉玖の声。だけど喋り方は丸っきり子どもの話し方だ。不安なのか、Tシャツの裾をぐしゃぐしゃに掴んでいる。 「えーっと…お前は今俺の家に住んでるんだよ。お前の母親も知ってる。とりあえず、暫くは俺の家だ」 「……おかあさん、もしかしておれのことすてたの?」  俺を見つめる莉玖の瞳にじわじわと水が溜まる。六歳といえば、両親が離婚して母親と二人暮らしだった時期だ。莉玖はその頃、よく母親に邪魔者扱いされていたらしく、捨てられない様に必死だったと言っていた。 「捨ててねぇよ。大丈夫。いきなり知らない奴の家で暮らすのは嫌だと思うけど、俺たちはお前の事知ってるから大丈夫。俺は山田悠矢。よろしくな」  手を差し出しても、莉玖はその手を見つめるだけで握り返してはくれない。宙に浮いたままの手を莉玖の頭の上に乗せて撫でると、いつもと変わらない莉玖の感触。  だけど、俺の事を知らない莉玖。記憶がないだけで、見た目は変わらないのにまるで別人だ。  屋敷に着くと、莉玖を部屋に連れて行き、寝間着に着替えさせた。シャワーを浴びても問題はないが、さっき怪我をしたばかりなので、一応今日の入浴は控えさせた。  人前で裸になるのが恥ずかしいらしく、浴室の方でゴソゴソと隠れて服を着替える莉玖。いつもは俺の前で普通に服を脱ぐが、そういえば最初は裸を見られるのが嫌だと言っていたっけ。それを俺が無理矢理服を脱がして…ああ、やっぱり俺って最低だったな。 「いたい…」 「莉玖様どうしました? 傷が痛みますか?」 「かた…いたい」  如月がその箇所を見ると、肩に俺が昨日つけた噛み痕。内出血していて、俺の肩にある痕と同じだ。胸や首にもキスマークの痕が沢山。こんなに身体に刻んだのに、忘れられた事が悲しい。 「ガーゼしておきましょうか。こんなにくっきりとしてると服に擦れて痛いですよね。誰でしょうね、こんな事をするのは…」  如月が俺へ鋭い視線を向けたが、知らんぷりをした。  莉玖は記憶の混乱で疲れている様なので、時刻はまだ二十一時だが休ませる事にした。  莉玖はピアスが気になるのか、何回も耳を触るので、それを外してやろうと彼に触れると彼の身体がびくっとまた跳ねた。 「ごめんな。痛いか?」  莉玖は首だけ軽く横にふる。外してやるからじっとしてろと言葉をかけると、俺の方は見ずに、外す作業が終わるまで大人しく待っていた。  全てのピアスを外して莉玖をベッドへと促すと、彼はフラットシーツの上に乗った。最初にこの家に来た時もそうやって寝てたな、と懐かしくなる。そして、本当に彼がこの三ヶ月の出来事を忘れてるのだとまた実感した。 「莉玖、フラットシーツはカバーを汚さない為にあるから、これと下のシーツの間に身体入れろ」  莉玖はおずおずとフラットシーツの下に入ったが、すぐには寝転ばない。まだ警戒しているのか、上体を起こしたまま下を向いている。 「莉玖、緊張しないでいいって。よし、今日はもう寝るか」  自分も彼の横で寝ようとベッドに入ろうとした瞬間、如月の手に肩を掴まれた。莉玖に噛まれた痕が服に擦れて、少し痛みが走る。 「…ってぇ! 何だよ?」 「よし、もう寝るかじゃないですよ。悠矢様、この状況で一緒に寝るつもりですか?」 「当たり前だろ。匂い嗅がないと寝れねーんだよ俺は」  如月は大きく溜息を吐いて呆れ顔だ。 「こんなに怯えてる莉玖様が、見ず知らずの男と一緒に寝れる訳ないでしょう? 今日は大人しく一人で寝て下さい」 「寝てたら思い出すかもしれねーじゃん、俺の温もりとか」  そう、あんなに俺に抱かれていたんだ。寧ろ抱いた方が思い出すかもしれない。記憶は六歳児でも、身体は十六歳なのだから、俺が抱いても何も問題はない。 「ダメです。今日は一人で寝かせます」 「莉玖は一人で寝るの嫌いだろーが! な、莉玖、一人は嫌だよな?」  莉玖はびくっとこちらを見て「一人は怖い」と呟く。ほら見た事か。鬼の首を取ったかの様な俺を無視して、如月は「あのお兄ちゃんと一緒に寝れる?」と莉玖に質問する。その質問に莉玖は首を横にふるふると振った。 「一人は嫌だけど、一緒に寝たくない?」  莉玖は首を縦に頷いた。 「ンなの、どうしろってんだよ?」 「私がベッドの横に付きます。悠矢様は一人でお休みになって下さい」 「はぁ? ンなの許可出来るか! お前こそ絶対手ェ出すだろーが!!」 「六歳児に手を出す訳ないでしょう」如月はまた呆れた顔をして、莉玖の方を見る様に促す。  莉玖は俺の顔を見て、びくっと怯えた。 「大きな声が怖いんですよ。悠矢様、もう少し抑えて下さい」 「……怖いって、俺が!? 莉玖、ンな事ねぇよな? 俺の事、怖い?」  俺の大きな声の問いに、莉玖は首を縦に頷く。  俺の顔すら見るのが怖いのか、顔は俺から逸らしている。  見た目はいつもの莉玖に、普通に拒否されて俺は一気に落ち込む。 「怖いって…何が!? なぁ、莉玖一緒に寝ようって! 何もしねーから!」 「……だったら、ひとりで、ねます」 「はぁ? 何でンな嫌がんだよ! 莉玖!」 「ひっ…」 「悠矢様! いい加減にして下さい! ほら、もう出て行って下さい」 「はっ? ちょ、如月! 開けろ!! おいコラ!!」  結局俺は部屋から締め出されてしまった。  扉が締まる瞬間に見た莉玖の顔は怯えていて、何だか貰われてきた子犬みたいだ。その震える身体を今すぐ俺が抱き締めてやりたいのに、また俺は嫌われてしまった。  (何なんだよ…マジで…)    莉玖の部屋の前で、俺はへなへなと座り込んだ。  この三ヶ月の日々を一瞬で忘れられたショックが大きい。あんなに身体を繋げたのに、俺の事をひとつも覚えていない。  彼の記憶が戻らなかったら、俺は一体どうなってしまうんだろう。  〝るっせぇ…何となくだよ〟  昨日、莉玖につけられた肩の噛み痕を摩ると少し痛い。昨日まであんなに幸せだったのに、どうしてこんな事になってしまうんだ?  莉玖は近くにいるのに、急に彼が消えてしまった感覚。このまま、昨日までの彼に会えないのかという不安。それを掻き消す様に、俺は何度も肩の噛み痕を摩った。  今日の出来事は夢だったと思えるように、早く明日が来る様に、俺は部屋に戻るとすぐにベッドに潜り、無理矢理目を閉じた。  全部全部、明日になったら元に戻っています様に。

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