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第五章 愛を忘れた狼 2
朝、カーテンを開けて窓の外を見ると、厚い雲に覆われている鬱陶しい天気。夏の気温の暑さと相まって、余計に気が滅入る。
いつもなら横で寝ている莉玖。だけど今日、莉玖はこの部屋にいない。
(……昨日が夢なのか、今が夢なのか。どっちにしろ、莉玖が隣にいない現実はクソだ…)
一階のダイニングに降りると、莉玖は既に着席し、バターロールを手に取っている。
「りーく♡おはよ♡」
視界に入る彼の頭には包帯が巻かれていて、昨日の事が夢じゃ無かった事を思い知らされる。だけど、昨日一緒に寝れなくて寂しかった俺は、ついつい普段の様に背後から抱きついてしまった。
俺の行為に驚いた莉玖はびくっと身体を揺らして、バターロールを机にポトリと落としてしまった。やはり記憶も戻っていない様で、更に俺の心が曇る。
抱きついた俺の元に、すぐ如月が飛んできて「そういう事は控えて下さい」と釘を刺してきた。クソ…お前は良いよな、ずっと莉玖の側にいやがって。脚を怪我している莉玖を、抱き抱えて一階に運んだのかと思うと余計に腹が立つ。俺がその役をやりたかったのに。
「莉玖、ちゃんと寝たか〜?」
着席した俺は怖がらせない為にニコニコで話しかけるも、向かいの席の莉玖はまたビクッと身体を揺らした。どんだけ俺は怖がられてるんだ。
「……あんまりねてない、です。でも、とうまがおしゃべりしてくれたから、よかった、です…」
いつもは千切って食べるパンを、今日は丸かじりだ。フォークの扱いも何処か辿々しくて、スクランブルエッグもポロポロと溢している。しかし、食べ方よりも辿々しい話し方が気になる。いつもの掠れた声なのに、まるで別人だ。
「なぁ、敬語なんか使わなくてもいいぞ」
「けいご…? それ、なんですか」
「莉玖様、〝です〟とか使わなくて良いんですよ」
「でも、とうまも使ってる…」
莉玖は如月の方を見た。俺と喋っているのにどうして如月を見るんだ? 昨日寝れない間、こいつらは何を喋っていたんだろうか。
「如月は良いんだよ。でもお前はそういう喋り方しなくていいの。わかった?」
莉玖の視線を自分に戻したくて、机をトントンと叩いて彼の注目を引いた。
「きさらぎって、とうまの事?」
「そうそう。斗真の事。お前、如月の事はすぐ名前で呼ぶのな。俺の名前は覚えてるか?」
「やまだ…」
「何で俺はいつも名字なんだよ!? わざとか!?」
俺は大きな声を出して椅子から立ち上がった。何で〝とうま〟はすぐ言えて〝ゆうや〟は言えないんだよ!?
「わざと…? じゃ、ないです」
莉玖はまた俺に怯え出す。ああ、またやってしまった。如月の視線が痛い。
「お前またその喋り方…はぁ…もう一々言うのも疲れてきた…」
俺に対して超他人行儀な喋り方。一方如月には普通に喋りかけていて、やっと如月に消えた劣等感がまた燻り始める。そんな俺の気持ちも知らないで、莉玖はびくつきながらも朝食をしっかりと食べ、美味しかったと言って少し満足そうだ。この時期の莉玖は親からネグレクトを受けて、ご飯すらまともに食べさせて貰えなかったのかと考えると、少し泣きそうになった。
「悠矢様、今日は登校する日ですよ。早く歯を磨いて制服に着替えて下さい」
「わかってるって…」
今は夏休みなので、本来登校なんかしなくて良い。だけど俺は生徒会長なので地味に登校する用事がある。ああ、本当に生徒会長になんかなるんじゃなかった。推薦した奴も俺に投票した奴も恨めしい。
「悠矢様、そろそろ行きますよ」
如月が部屋を出ようとすると、莉玖は不安そうに如月のスーツの裾を引っ張った。
「とうま…どっか行っちゃうの?」
「悠矢様を送りに行くだけですよ。すぐ帰ってきます。莉玖様も一緒に乗りますか?」
「とうまが行くなら、行く…」
「じゃあそのまま病院に行きましょう。検査もあるし。脚はまだ痛いですよね?」
莉玖がコクンと頷くと、如月はひょいっと彼を持ち上げた。流石ゴリラの怪力を持つ男。いや、俺だってあのぐらい出来るけど。
俺のじとりとした視線を気にもせず、少し照れた莉玖と楽しく喋りながら、如月はそのまま玄関の方へ彼を抱えて歩き出す。いや、ちょっと待て。俺を置いて二人で楽しそうにするな。
「ちょ、ちょっと莉玖、俺は? 俺がどっか行くの寂しくなんないのか?」
莉玖の目の前に立って、俺は? 俺は? と指を自分に向けて猛アピールする。何て哀しいジェスチャー。俺は彼の恋人なのに。
「やまだは…こわいから…別に。とうまは…いないとさみしい…」
「こわ、い…?」
また如月に莉玖を取られていく。ここ暫く穏やかだった俺の血が、またその事で沸騰し出す。
車に乗り込んでも、俺がいる後部座席よりも助手席に乗りたがり、走行中も如月とずっと喋っている。昨日一緒の部屋に居ただけでこの懐きよう。自分との差が凄すぎる。
(…何なんだよ、朝から気分悪りぃ…)
最近は莉玖とべったりだったから、隣にいないと、片割れがいなくなった様に寂しい。今日だって、朝抱きついた時ぐらいしか匂いを嗅げなかった。だけどそれだけで俺の身体が疼いたので、匂いの記憶とは恐ろしいものだ。
出たくもない生徒会のミーティングに朝から出席して、その後も小さな学校行事の打ち合わせ。昼過ぎに全ての業務が終わると、校門にいつもの迎えの車が来ていたが、運転席から出てきたのは松下。如月の所在を尋ねると、病院から帰ってきて莉玖につきっきりで屋敷にいるとの事。その報告だけでまた苛々とする俺は、きっと心がお猪口ぐらい小さいんだと思う。
「あーまた負けた…とうま強すぎ…」
「ふふ。でも筋が良いですよ。莉玖様はコツを掴むのが早いですね」
屋敷に戻ると、莉玖と如月がリビングでチェスをしていた。リビングに人がいる光景は隼が泊まりに来ている時ぐらいで、莉玖の姿が隼に重なる。十六歳なのに、中身は六歳。
嬉しそうに如月にもう一度勝負を挑む莉玖の顔。昨日よりは緊張が溶けたかな、と俺が近づくと莉玖の顔はまた少し曇った。
「おい…何で俺の顔見たらそんな顔するんだよ…」
「悠矢様、おかえりなさい。帰って早々怖い顔やめて下さい。莉玖様が怖がってます」
莉玖は如月の隣に座って、俺から見えない位置に座り直した。俺って、こいつが記憶を失くしてからそんなに嫌われる事したっけ?
また軽くショックを受けた俺は、部屋に戻り、制服から着替えるとベッドにぼふっと倒れ込む。スプリングが弾んで、ついつい莉玖をこのベッドで何回も抱いた事を思い出す。思い出の中の莉玖はとてもやらしくて、目を瞑ってその姿を反芻する。
見た目はそのままなのに、中身も喋り方も違う俺の愛しい恋人。
最初から俺は好かれてはいなかったから、殴って、レイプして脅した。その内、俺の家に住まわせて、毎日セックスをした。
何とも滅茶苦茶な馴れ初めだが、莉玖は徐々に、俺に心を開いてくれていたと思う。
三ヶ月かけて開いた彼の心の扉。だけどそれがまたバタンと閉じられた。
六歳までの記憶しか持っていない莉玖。もし記憶が戻らなければ、彼はまたその年齢から人生を歩むのだろうか。
俺とのあの日々を、一生忘れたままで。
俺の事を好きだと、全部が欲しいと言ってくれた事も、一生捨てないで、離すなと言ってくれた事も、全て忘れたままで。
(一生離したくないけど、お前が俺を忘れたなら、一体どうしたら…)
莉玖のつけてくれた肩の噛み痕をまた触る。もう痛みは殆ど消えていて、痕すらも消えかかっている。あの日俺が会食になんか行かなければ、莉玖は記憶を失くさなくて済んだのに。
今更後悔してもしょうがない事ばかりを考えていると疲れてきて、いつのまにか寝てしまった。気づくと夕食の時間。如月から起こされてダイニングに降りると、莉玖の姿がない。まだ調子が掴めないみたいで、もう休んでいるそうだ。
如月は莉玖に付き添うとの事だったので、俺はだだっ広いダイニングで、一人寂しく夕食を取る。俺の向かいの席にいつもいた莉玖の姿が、幻みたいに浮かび上がっては消える。
一人で食べる飯は、好きじゃない。
いやな事ばかり思い出すから。
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