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第五章 愛を忘れた狼 3
──おかあさん、ごめんなさい…もうだれにもいわない、だからゆるして…
──私はあんたの母親なんかじゃない! 私の息子は悠二だけよ! 悠二を殺して、私も陥れようって言うの?
──ちがう、ちがうよ…おかあさん、いかないで…おれをひとりにしないで…
あんたの事なんか、誰も愛してくれないわよ、悠矢──。
息苦しくなって、ハッと目が覚めた。視界に入るのは真っ暗な部屋の天井。額を触ると、汗が沢山吹き出して、ガウンもはだけている。はぁはぁと息が上がるが、自分が何の夢を見ていたのかは思い出せない。
(でも多分嫌な夢…気分悪い…)
サイドテーブルの時計を見ると深夜二時。
今日も俺の隣には莉玖が居ない。すぐ横にごろりと身体を向ければ莉玖の身体があって、魘されて起きても、彼をぎゅっと抱き締めればすぐに眠りにつけたのに。だが莉玖がいない為に寝つきは悪いし、寝てもこうして夢見が悪い。
彼が動いてシーツが擦れる音、肌に口づけする音、舌が絡む水音。たった二日前の事なのに、随分遠く感じる。
のそのそと重い身体を上げて、莉玖の部屋の前へ行く。夕食の時間に休んでいた莉玖はあれから部屋を出てくる事はなかった。
(顔だけ見たい…)
扉を開けると、天蓋がついたベッドの上に莉玖は一人で寝ていた。
莉玖は暗闇が嫌いだから、いつもベッドサイドの灯りだけをつけて寝る。その灯りのお陰で彼の姿ははっきりと見える。如月の姿が見当たらないが、自室に戻ったのだろうか。どうやら今は居ない様でホッとした。きっと彼がいたら、部屋にすら入らせてくれないだろう。
彼が起きない様にそっとベッドへ近づくと、寝息を立てて気持ち良さそうに寝ている莉玖の顔。寝顔はいつもと一緒で思わず口角が上がった。瞳を閉じている莉玖は、まるで眠り姫の様に美しい。
仄かな灯りでも、陶器の様に滑る肌の質感がわかって触りたくなる。その肌に口づけをすれば、お前の可愛い口から妖艶な声がすぐに漏れ出るのに。
(ちょっとだけなら、起きないよな…?)
触れるか触れないかぐらいに彼の頬に唇をつける。足りない、こんなぐらいじゃ。だからまた、少しだけ唇を押し当てる。自分の身体の奥から、彼と身体を繋げた時の快感が湧き上がってくる感覚。もっと彼が欲しいと頭の中で声がする。その囁きに背中を押される様に、彼の耳輪をぺろりと舐めると彼の口から「ん…」と吐息混じりの声が漏れ出した。
(思い出せよ…俺の事。忘れてんじゃねぇよ…莉玖…)
「…ん……ッ!? な、に……や、だ…やめ…」
俺が唇に舌を挿入した途端、彼の目が開く。急に大人の男が自分にのしかかっていたら、六歳児にとっては恐怖だろう。だけど俺はお前の恋人で、体格も同じぐらい。おかしい事なんてひとつもない。
俺を押し返そうとする莉玖を無理矢理押さえ込んで、唇を貪る。いつもならすぐに絡む舌は、中々外には出てくれない。
「う、ぅぅ…やだ…やめろ…」
唇に吸い付いても、莉玖はすぐに顔を逸らす。
「莉玖…何で嫌がるんだよ…いつもしてただろ…」
「んぅ…んっ…し、しらない…やだ…とうま…とうまっ!!」
中身は六歳でも身体は十六歳。莉玖の全力の力で押し返されると流石にぐらつき、俺も莉玖を全身の力で押さえ込む。これじゃまるで、初めてした時のレイプと一緒だ。俺だってこんな事をしたくはないが、嫌がるからしょうがない。そしてその間も「とうま、たすけて!」と叫び、自分の名前を呼ばない莉玖に、俺の苛つきが頂点に近くなる。
「何で如月の名前呼ぶんだよ…なぁ莉玖! お前は俺のモンだろうが!! 莉玖!!」
「やだぁっ! とうまぁ! たすけて!!」
莉玖が暴れ、足をバタバタさせるのでフラットシーツとカバーが縒れてぐちゃぐちゃ。肌を舐めると余計嫌がり暴れる。俺は、莉玖がどうしてこんなに暴れるのか理解出来ない。
「……あんなに気持ち良くなってただろ? 何でだよ…何で俺を嫌がんだよッ! 言う事聞けよッ!」
「ひぐっ…いやだぁ…たすけて…」
泣いて嫌がる莉玖の耳輪を舐って、いつもの様に首を愛撫して…そうすると莉玖はいつだって気持ち良くなってくれた。だけど目の前の莉玖は暴れて泣いて俺を拒否する。でもきっと、俺のモノを捻じ込めば、また俺の事を…
「何してるんですか!? やめて下さい!」
如月が部屋に入ってきて、俺を莉玖から引き剥がそうとする。
「莉玖に俺の事思い出させんだよ…おかしいだろこんなん…」
「おかしいのは貴方ですよ! 悠矢様、離れて下さい」
「うるせぇ! お前は引っ込んで…」
その瞬間、背後から凄い力で引っ張られ、俺はベッドの外へと投げ出された。すぐに立ち上がったが、如月に簡単に足払いされ、俺の背中は再び床についた。
「如月ッ! 何すんだっ!」
「すみませんが、今の悠矢様を莉玖様の近くに置いておけません。部屋から出て行って下さい」
そのまま身体を掴まれ、如月は重い俺の身体を押しやり部屋の外へと追い出そうとする。ベッドの上の莉玖ははぁはぁと呼吸を荒くしながらも、部屋を出される俺を怯えた顔で見つめている。
「なぁ…お前はそんなに俺の事嫌だったのかよ!? 忘れるくらい嫌だったのかよ! 俺の事好きな莉玖は何処行っちまったんだよ!? なぁっ!?」
「あ……お、れ……」
莉玖の綺麗な顔から涙が沢山出て、更に怯えた顔になる。以前はそんな顔すら加虐心を刺激されたが、今は違う。最近の俺を見るお前の顔はもっと笑顔で…嬉しそうで…。だから、そんな顔を向けないでくれ。
「……い、た…い…あたま、いたい…」
莉玖が両手で頭を抑えてベッドの上で倒れた。頭を掻き毟るので、巻いていた包帯がほどけていく。
「はぁ…何でこんな事に。悠矢様、話は後で聞くので…」
「……何で…何でだよ…ッ…会わせてくれよ! 本当の莉玖に会わせろよ! こんなの莉玖じゃねぇ!」
「……貴方は彼が目の前で倒れてるのが見えないんですか? 先程から自分の気持ちばかり押し付けて、何も見えてないんですね」
「うるせぇ!! 黙れ!!」
「とにかく、今は貴方に構っている暇はありません。あと…莉玖様はずっと莉玖様のままです」
如月は俺を部屋から出して、扉を閉めようとする。その閉まりかける扉を、俺は手で掴んだ。
「莉玖!」と叫んでまた部屋に入ろうとした途端、如月は俺のガウンを掴み廊下の壁へ勢い良く押し付けた。ドンと大きな音がして、打ち付けられた衝撃が背中にビリビリと伝わる。
「出てけって言ってるのがわかりませんか? 我が儘もいい加減にして下さい」
たまにしか見せない如月の鋭い目。彼がこの目をする時は本気で怒っている時。バタンと扉が閉められて、俺はそのままズルズルと蹲み込んで項垂れる。彼の部屋は鍵がついていないが、もう押し入る気力はなかった。
俺はおかしい事を言ってるんだろうか。だけど、あんなのは莉玖じゃない。もっと荒々しい言葉で話すのが莉玖なんだ。俺の目を見て、嫌がりながらも気持ち良くなってくれるのが莉玖なんだ。
あんな言葉遣いは彼じゃない。目の前の俺を拒否して如月の事を呼ぶなんて彼じゃない。
あんなのは、俺の好きな西園寺莉玖じゃない。
(ずっと好きって言ったじゃねーか…)
自分の肩を掴んで、彼の噛み痕の痛みを思い出す。だけどもう痛みは殆どない。莉玖に刻んで貰った痕がどんどん消えていく。
俺はまた、涙を溢してしまう。
莉玖が抱きしめてくれないと、俺はもうどうしようもない。
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