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第五章 愛を忘れた狼 4
あれから部屋でベッドに横になっても寝れない。思い出すのはさっきの莉玖の泣きじゃくった顔。
どうしたら、記憶が戻ってくれるんだろう。
どうしたら、俺の事を好きな彼に戻ってくれるんだろう。
顔を枕に押し当てて悩んでいると、コンコンと扉を叩く音。扉を叩く主が誰かを分かっている俺は無視をする。だが、俺の返事も聞かず、その主はギィと扉を開けて部屋に入ってきた。クソ、鍵を掛けるのを忘れていた。
「入っていいって言ってねーぞ」
「入って来るなとも言われてません」
相変わらずの返しに苛ついて、如月に枕を投げつけた。如月は見事にキャッチして、「さっきは手荒な真似をしてすみません」と冷静に俺に枕を返した。
「だけど二度とあんな事はやめて下さい。六歳児にとってトラウマものですよ」
「もうやんねーよ。あいつは莉玖じゃねぇ…」
如月は「それ本気で言ってるんですか?」と大きな溜息をついた。
「自分を忘れられたからって、もう諦めちゃうんですか? 本気で好きって、どの面下げて言ってたのやら」
そりゃお前は懐いて貰ってるから良いだろう。俺は最初から怖いだなんだの怯えられて…。結局莉玖は俺じゃなくて、やっぱり如月が好きだったんだ。俺の側にいたのも、如月がいつも近くにいるからだ。段々とまた苛々してきて、俺は視線をシーツへと向けた。
「あれは正真正銘、莉玖様です。本当のあの子です」
「俺の事を忘れるのが本当の莉玖なのかよ…」
「だから、記憶が後退してるだけですよ。私だって忘れられてるんですから。でも、何となく彼がそうなった原因はわかりますよ」
原因がわかる? 俺は如月の言葉に思わず彼の方を向いた。
「あなたの事が怖くなったんですよ、多分」
その言葉に、記憶を失くしてからの莉玖の顔が過ぎる。俺の顔を見れば怯え、怖いと言って顔を見てくれない彼。
「……だから何で俺が怖いんだよ! 俺は何もしてねぇだろ…何なんだよそれ…」
「今の彼の話じゃないですよ。十六歳の彼の話です」
「余計わかんねぇよ…あんなにくっついてたのに、俺は怖がられてたのかよ…」
「好きすぎて怖くなったんですよ。莉玖様はあなたとずっと一緒にいれるか不安だった。そんな時に頭部を強く打って、捨てられない様に怯えてた頃の記憶が出てきた、というのが私の見解です」
如月が何を言っているのかあまり理解が出来ない。俺の事が好きすぎて怖い? ポカンと口を開けて固まる俺に如月は言葉を続けた。
「もう貴方の事を好きだと考えるのが辛い、だから今の記憶を閉じ込めた」
「辛いとか、怖いとか……何なんだよそれ……」
「好きになりすぎて、いつか離れるのが、捨てられるのが怖い。昔母親から同じ事を感じた様に」
「……確かに莉玖は俺に捨てるなとか言ってきたけど、俺は一生莉玖と居るって言ったぞ…毎日好きだって言ってて…それで何で…」
まだ言われた言葉を咀嚼出来ない俺の肩を如月は掴み、ガウンを勢いよくずらした。そこにはうっすらと残っている噛み跡。如月はそれを見てはぁ、と溜息を吐いた。
「これが彼が不安になっていた証拠です」
莉玖がこれをつけた時、〝何となく〟〝悪いと思ってるなら噛ませろ〟と言われた。何回もセックスを強請る俺へのお仕置きで付けられたものだと思っていた。
「いつ付けられました?」
「記憶無くす前の日…だけど何だよ、それとこれが不安の証拠と何の関係があるんだ?」
「まだわからないんですか? やっぱり勉強は出来ても人の気持ちに対しては全然ダメですね。私も貴方を甘やかしすぎました」
如月が呆れた顔をする。寧ろどうしてお前はわかるんだ?
「穂乃果様への嫉妬と、いつでも自分の事を思い出して欲しい。そういう意味合いです」
「は…? 嫉妬…? 思い出す?」
「穂乃果様との会食の事、あまり良く思ってなかった様なので私が教えたんですよ。会食中でも、いつでも悠矢様に思い出して欲しいならそうすれば良いってね」
──はぁ? 俺がんな女々しい事出来るかよ…気持ち悪い。
──彼女への嫉妬も、悠矢様にいつでも自分の事を考えて欲しい事も否定しないんですね。
──は……。ち、違ぇ! 俺はそんな事は…
──顔が真っ赤ですよ。それに嫉妬して欲しいってこの間自分で言ってたから今更じゃないですか。
──るっせぇな! お前もう黙れ!
──嫉妬して欲しいなら、私とセックスすれば一発ですよ。
──だからやんねぇよ! ボケ!
「莉玖様はやらないと仰ってたんですけど、ちゃんと実行したんですね。ふふ、女の子みたいな嫉妬可愛いなぁ」
如月は嬉しそうに笑ってる。俺がいつでも思い出す様に? そんなの、俺はいつだってお前の事を考えてるっていうのに。
だけど、如月の言葉を聞いてる内に〝不安な気持ち〟がわかり始めてきた。俺も身体を繋げても不安だった。不安だからこそ肉体だけでもいつも繋げて、触れていたかった。
さっき散々触った噛み痕にまた触れたが、やはり痛みはない。記憶を無くす前の莉玖が俺に付けてくれた痕。薄れていく彼の痕跡。消える前に、またあいつに新しい痕をつけて欲しい。
「なぁ…莉玖の記憶ってもう戻らないのか…?」
「心因性の物なので、今は何とも言えません。しかし記憶、記憶って…悠矢様は目の前の莉玖様を全然見ようとしないんですね」
「見てるだろーが! でも俺の事怖いって…あんなに拒否されたら…俺だって傷つく」
「また自分の事ばっかり。いい加減にして下さい。傷ついてるのは莉玖様の方なんですよ」
それはわかっている、と反論すると如月は全然わかってません! と大きな声を出し、その迫力に思わず身体がたじろいだ。
「起きたら六歳に戻って、好きな人の記憶も消えて、母親には会えずに知らない家に連れてこられて、挙句の果てにレイプまがいな事までされて…セックスが出来ないのがそんなに嫌ですか? 抱きしめて貰えないのがそんなに悲しいですか? 彼は貴方に都合の良い人間じゃないんですよ。貴方みたいな自分本意な男に、六歳の彼が懐く訳がないでしょう!」
いつも穏やかな如月が目を見開いて、身体がビリビリとする程の声で俺を圧倒する。そして、全ての言葉が正論すぎて、俺はぐうの音も出ない。
「頭を怪我しても生きていて、記憶を失くしても日常生活の事は出来る。それだけで充分でしょう。記憶を失くして、赤ん坊の頃まで戻る人もいるんですよ」
その言葉に俺は下を向いてまた黙る。勿論死ななくて良かった。それはそうだけど、納得させようとしても、また自分を忘れられている事のショックが湧き上がる。
「幼少期の彼は母親に邪険にされていたのは知ってますよね? そういう環境にいた子供は、人の顔色を伺うんです。なのに貴方はさっきみたいに今の彼にはどうしようもない事を言って、大きな声で怒った顔…彼が怖がるの当たり前でしょう? 向こうは悠矢様を知らないんですよ。彼が甘えられるのは、自分をそのまま受け入れて優しくしてくれる人間だとお伝えした事、もう忘れたんですか?」
また俺は何も言葉を返せない。
わかっている。今の莉玖に言ったって、記憶がすぐに戻る訳じゃない。
だけど、早く元に戻って欲しいとそう思う事の何が悪いんだ?
俺が好きすぎて怖くて、穂乃果への嫉妬で噛み痕をつけた彼。直接その事を聞きたいのに、彼の記憶からその出来事は消えている。
早く彼を抱きしめて、安心させてやりたいだけなのに。
「……貴方は結局の所、莉玖様をセックスの対象にしか見ていなかったのかもしれませんね。本当に性玩具やペット扱いだったんですか?」
「ンな事ねぇよ! 好きで好きで…どうしたらいいかわかんねーくらい好きだ…愛してる…」
「愛してる、ね……魂まで愛してたら今の彼だって受け入れられる筈です。彼が安心出来る様に包み込んで、守ってあげる。子供の様に喚き散らすだけの貴方にはまだわからないですかね」
如月の言葉が俺の身体を串刺しにする。違う、俺はちゃんと莉玖が好きだ。
いや、〝ちゃんと〟って何だ? 怖がらせて泣かせて…今の莉玖が笑顔になるのは如月と一緒にいる時だけ。
考えが上手く纏まらなくて、ベッドカバーをぐしゃぐしゃに掴む。
「莉玖様の首を絞めてたんでしょう? 彼から聞きましたよ」
「そ、れは…」
「彼は、もしそのまま死んだとしても構わないと言ってました」
「は…死んだらって…何だよそれ…俺はそんなつもりじゃ…」
ない、なんて言い切れるのだろうか。
俺の為だけに生きて欲しい。俺から離れずに、俺だけを求めて欲しい。俺から離れるなら殺すと…首を絞める時にそう思っていた。彼の意思を聞く事すらせずに、自分の気持ちをぶつけた。そんな自分の最低な行為に対して、死んでもいいなんて思っていた莉玖の事を考えて胸が痛くなる。
(でも、俺は莉玖が好きで…だから言葉では沢山…)
「貴方がそんなつもりはなくても、莉玖様はその覚悟でしたよ。ちゃんと彼と言葉を交わしていましたか? 彼を安心させていましたか?」
「……ちゃんと言ってた…好きだって! ずっと一緒にいるって!」
「彼が不安だったのは貴方が穂乃果様と変わらず会っていた事です。ゆくゆくは破談にする事、ちゃんと伝えていなかったんじゃないですか? 彼が記憶を失くしたのは貴方の所為でもあります。不安にさせていたのは、貴方の所為です」
「……俺の、所為」
「自分の言いたい事だけを伝えるのは子供です。彼の欲しがっている言葉を汲み取ろうとする努力、悠矢様はしていましたか?」
如月の言葉は串刺しどころか、機関銃みたいに俺を撃ち抜いて、穴だらけの俺はもう倒れそうだ。
莉玖の欲しい言葉…だって、言ってくれないとわからないじゃないか。俺はエスパーじゃないのだから。
「西園寺の家に帰しますか? もう要らないんでしょう、あのペット。主人の顔を忘れたペットに悠矢様は興味ないんでしょう?」
「だから、ペットじゃねえって! 家にはまだ帰さない…一生帰さない! 莉玖は一生俺と一緒にいるんだよ!」
「……だったら、今の彼をちゃんと見てあげて下さい。彼の事を思い遣って、安心させてあげて下さい。今の扱いが続くなら、私が彼を貰いますよ。貴方より彼を愛する自信があります」
「は…?」
「ずっとそばに居て欲しいなら、縛りつけるだけじゃダメですよ。じゃあ、私は莉玖様の部屋に戻ります」
「……」
「あ、さっきの出来事はちゃんと反省して下さいね。次同じ事をすればクビ覚悟で殴りますから」
「やんねぇよ…」
「なら良かったです。おやすみなさい」
扉がパタンと閉まり、俺はベッドの上でまたカバーをぐしゃぐしゃに掴む。
如月の本心は、いつも分からない。さっきの莉玖を貰うという言葉も、本心なのかは分からない。
でも、いつも如月は俺を見捨てない。俺が出来る様になるまでサポートしてくれる。
本当に莉玖を貰う気なら、わざわざ俺に言わないで奪っていく男だ。
ぐしゃぐしゃになったカバーを離して、手で目を覆いながらベッドに仰向けになる。
浮かぶのはさっきの泣きじゃくる莉玖の姿。
優しくしたい。抱き締めたい。
俺は、なんて不器用なんだろう。不器用すぎて、嫌になる。
自分の気持ちを押し付けるだけの俺は、莉玖を不安にさせて、記憶から消された。自業自得だ。
眠れないまま朝になり、朝食の時間に松下が呼びに来た。ダイニングに降りると莉玖の姿は無く、朝食を乗せたトレーを手に持った如月の姿。温かいスープとサラダと莉玖が気に入っていたバターロール。
「莉玖様は部屋で朝食を取ってもらいます。あんな事をする悠矢様に、朝から会いたくないと思いますので」
嫌味ったらしく言われたが、多分その通りなので何も言い返せない。莉玖は俺の顔を今は見たくないだろう。だけど……
「……莉玖の部屋、俺もついていっていいか?」
「いいですけど、彼が嫌がったらすぐ出て行って下さいよ」
如月は俺の考えている事を察してくれた様で、意外にもすんなり許諾してくれた。
トレーを持った如月の後ろを歩き、莉玖の部屋に入る。ベッドで上体を起こしていた彼は如月しか見えて無かった様で、背後の俺の顔を見て身体をビクッと揺らした。
目にはみるみる涙が溜まり、今度は少し震えだした。その姿を見て、自分のしでかした事を後悔する。俺は、莉玖の心を酷く傷つけてしまった。
「莉玖…」
俺の声だけで、彼は怯えて身体を揺らした。それだけで俺の心は折れそうだ。
「昨日はごめん……もうお前に近づかねーから安心しろ」
「……」
「だけど、まだ家には帰せない。嫌いな奴の家に居るのは辛いだろうけど、ごめん…。何かやりたい事があれば如月に言え。出来るだけ叶えるから」
莉玖はシーツに視線をむけていて、俺から顔を逸らしている。
もしかしたら、このまま俺を見てくれないのかもしれない。だけどそれでもお前を俺の目の届く所に置いておきたい。
こんな目に遭わせておいて、まだ彼を解放しない俺は最低だ。だけど俺はお前を離したくない。だからせめて、お前がこれ以上傷つけない様にしたい。
──あんたの事なんか、誰も愛してくれないわよ、悠矢。
ああ、あの女に昔言われた通りだ。こんな自分勝手な俺は莉玖に愛される資格はない。でも、彼を愛する事だけはやめたくない。
「如月、お前は暫く俺に付かなくていい。俺の事は松下にやって貰うから、引き継ぎだけ頼む」
「……わかりました。莉玖様、すぐに戻るので食べれそうだったら朝食食べて下さいね」
「うん…」
部屋から出るまで、莉玖の顔は見ない。
俺に怯える彼の顔を、今は見れない。
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