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第五章 愛を忘れた狼 5

 だだっ広いダイニングで一人で取る夕食。  小さい頃からずっとそうだった。だから、無言でいるのは慣れている。だけど、やはり寂しい。  十歳の頃、如月が一緒に住む様になった。彼が大好きだった俺は、ずっと一緒にいる事が嬉しくて彼の側から離れなかった。  彼は、今や家族よりも家族だと思える大事な人だ。  十六歳になって、ほぼ強引に莉玖を家に住まわせた。初めて心も身体も欲しくなるくらい、好きになった人間。毎日隣に居ても足りなくて、一秒も離れたくなくて、ずっと彼のそばにいた。  莉玖は俺の全てをあげても構わない程、愛している人だ。  二人とは、最近一緒に飯を食べていない。    この一週間、俺は莉玖に近づくのを控えているし、彼自身も俺を避けていて顔を一回も見ていない。彼の匂いを嗅いで寝る事が日課だった俺は安眠出来ず、最近は寝不足で少しフラフラだ。  そろそろいい感じに眠気が襲ってきたが、俺は如月に言いつけられている問題集をやらなければならない。 「莉玖様が居なくて退屈でしょう? ちゃんと暇潰しを用意しておきましたよ」  ニッコリと笑った如月は、夕食後の俺の目の前に英語の問題集を何冊か積み上げた。 「莉玖様と出会ってからかなりサボってましたからね。ちゃんと取り戻してくださいよ。とりあえずこの問題集から」  差し出された問題集をパラパラと捲る。 「……はぁッ? これ難しすぎるだろ!?」  少し見ただけで元から無かったやる気がマイナスに下がる。 「TOEICで600点を軽く超えてる貴方なら大丈夫ですよ。わからないところは、莉玖様が寝た頃に聞きに来てください」  如月が置いていった問題集はTOEFLに向けての物。  俺は高校卒業したらアメリカの大学へと進学予定。本当は高校から向こうの高校へ行けと言われていたが、俺は日本が好きなのだ。理由をつけて今の金持ち高へ行かせてもらったが、大学は絶対アメリカへ行けと言われている。  向こうにはホテル経営学をトップレベルに学べる大学があるのだが、俺からしたら何じゃそりゃ、という感じだ。将来の経営者になる為に学べと、親父からのお達しなのだが、社長の息子は自動的に社長になれないのだろうか。  とどのつまりTOEFLとは、実生活でのコミュニケーションに必要な「読む「聞く」「話す」「書く」の四つの英語の技能を総合的に測定する試験の事で、アメリカの大学に入る為にはこれを受けなければならない。  勿論、俺は日常会話くらいは出来るが、授業についていくには圧倒的に全てが足りない。  (アメリカ……まだまだ先の事だと思って莉玖には言ってなかったけど、今の状態じゃついてくる訳ねぇよな…あーもう益々アメリカ行きたくねぇ…別に日本でもホテル経営学なんて学べるだろ…)  問題を解き進めていた手からシャープペンシルを離して、ガクンと項垂れる。ここ三ヶ月莉玖に夢中だったから、久々にする英語学習で更に頭が疲れた。 「やる気でねぇ…」  目の前の問題集の英文が一文字ずつ剥がれていく。答えが全然わからない。どうして日本人なのに英語を勉強しなければならないんだ。どうして俺はアメリカの大学を受けなきゃならないんだ。  (もう分からん。如月に答え教えて貰お…。莉玖も寝ただろうし、行っても良いよな)  如月の部屋の扉は開いていて、ベッドカバーが少し乱れたまま中には誰もいない。灯りはベッドサイドの仄かな照明のみ。  問題集を部屋の隅の机に置いて、ボフンとベッドにうつ伏せになった。もう、俺の眠気は最高潮だ。  (……莉玖と如月の匂い。一緒に寝てんのかよ…あークソ…でも、二人ともどこ行ったんだ…? ん〜…いい匂い)  シーツと枕から香る久々の莉玖の匂いに癒されて、俺の目蓋が閉じていく。  気づいた時には俺は夢の中で莉玖を抱きしめていた。最近は夢の中で会えなかったから嬉しい。この匂いと感触、ああ、俺が会いたかった莉玖だ。  俺がぎゅうっと抱きしめると、夢の中の彼は嬉しそうに笑って抱き返してくれた。久々のその顔が嬉しくて、泣きながら何度もキスをした。  だが無情にも夢の時間はあっという間に過ぎ、段々と意識が覚めていく感覚がする。夢が、終わっていく。また、莉玖に会えない。  この感触を覚えていたい。そう思った俺は、腕の中の彼を強く抱きしめる。だけど莉玖は悲しい顔をして、俺の腕からするりと離れていってしまう。  (莉玖…行くな…俺は、お前の事…) 「離したくない……」  目を覚ますと、辺りは仄かな灯りに包まれた如月の部屋。まだ朝ではないらしい。何だ、もう少し寝れるなと、俺は目の前の髪の毛に顔を埋めた。俺の大好きなシャンプーの匂い。その香りも、この抱き心地も最高だ。  (しかし、やけにリアル…って、えっ?)  腕の中には莉玖の姿。莉玖はリラックスしているのか、くぅくぅと可愛い寝息を立てて寝ている。どうして莉玖が俺の隣で寝ているのかはわからないが、すぅっと息を吸い込むとシャンプーの香りが鼻腔を擽る。肌に伝わる体温も、この息遣いも全てが愛しい。少し力を入れて抱きしめると、莉玖は「とうま…」と言葉を漏らして抱きしめ返した。  (如月と間違えてんのか…)  自分の胸が少し痛い。これが如月なら彼は自分から抱きしめてくれる。だけど目を覚まして俺だと気づいたら、途端に怯えた顔に変わってしまう。でも、彼が寝ている間だけでも、俺だと思ってなくても、彼の重さや匂いを間近で感じれる事に喜びを噛み締めた。  (同じ家に住んでんのに、会いたかったなんて思うとか…俺重症…)  彼の頭の包帯は取れていて、怪我をした部位を撫でる。包帯が取れた事すら知らない程、彼には会っていなかった。最近はちゃんと食べている様で、顔色が良いことに安心する。  (……ちゃんと飯食わねぇから階段から落ちるんだよ。莉玖のアホ…記憶が戻ったら怒るからな…)  彼を抱きしめている内にまた眠気が来て、そのまま目蓋を閉じた。  チュンチュンと鳥の鳴き声がして、閉じた目蓋が光を感じる。目を覚ますと、カーテンを閉め忘れた窓から太陽の光が部屋の中に差し込んでいる。  腕の中の莉玖はもう消えていて、隣には斜めになった枕と、莉玖がそこにいた形で残るフラットシーツとカバーだけ。枕を引き寄せると、ほんの少しだけ莉玖の香りがした。  俺はそれを目一杯嗅いで、盛り上がった股間を右手で触る。この匂いを嗅いで我慢するのも限界だ。自分の息がどんどん荒くなり、下着の中に手を入れて硬くなり始めた陰茎を扱く。  (あ〜莉玖に会いたい、触りたい、抱きたい…また俺そんな事ばっかり考えて、最低…。でも気持ち良い…あ〜…イク、かも…) 「人のベッドでオナニーするのやめてくれません?」  その声に「しまった…」と思いながら、上体を起こす。射精しそうな陰茎を慌てて隠す俺を、如月は呆れた顔で見下ろした。 「私はバリタチなので、ご期待に添えなくてすみません。残念ながら悠矢様を抱いてあげる事も出来ません」  真剣に申し訳なさそうに言ってくる如月に「誰がお前となんかセックスするか!」と朝から大声で突っ込んだ。 「英語でわかんねー問題あったけどお前居ないから…でも、莉玖が俺の横で寝てて…」 「莉玖様なら自分の部屋で寝てますよ。とうとう幻覚が見え始めました…? 可哀想に…」 「哀れんだ目でみてくんな…腹立つ…」  如月曰く、昨日莉玖が寝付くまで一緒にこの部屋のベッドにいたが、如月はその後トレーニングの為に彼を一人置いて部屋を出た。戻ってくると俺だけが寝ていて、当の莉玖は自分の部屋で一人で寝ていたという。  じゃああれは夢? だけどしっかりと感触はあった。 「私の事好きなのはわかりますが、いない間にベッドで寝てオナニーするなんて…悠矢様、そんな熱烈だと流石の私も引きます…」  如月は手で自分の口を抑えた。変態に怯える女子か! いい歳したオッサンの癖して。 「だからお前の事でオナってねぇよ!」 「とりあえず早くそれ処理して起きてくださいよ。あ、私のベッドでやらないで下さいね」 「クソ…やる訳ねぇだろ…」  如月に促されて自分の部屋に戻ろうとすると、途中にある莉玖の部屋。ドアが少しだけ開いていて、その隙間から中を確認する。だけどこの角度から莉玖は見えなくて、奥を見ようと自分の顔をその隙間へと近づける。その瞬間ドアが大きく中へ開き、俺はよろけながら部屋に倒れ込んだ。 「いってぇ…」  うつ伏せになった身体を慌てて起こそうとすると、ドアノブを手に持ったまま、寝間着姿の莉玖が吃驚した顔で見下ろしている。  やばい、また怖がらせてしまったか? 下手な事を言って彼をまた震えさす訳にはいかず、寝起きの頭で必死に言葉を捻り出す。 「やまだ…いたいのへいきか?」 「へ…あ、あー! 平気! 全然痛くねぇよ?」  まさか莉玖から話しかけてくれるとは思わず、ちょっと焦る。 「きのうないてたけど、いたいのなおったのか?」  莉玖がしゃがみ込んで、倒れている俺の目線に近づけた。 「え? 昨日…?」  てっきり今転んだ事について心配してくれたと思ったので、言ってる意味が分からず混乱する。俺は昨日痛くて泣いていた記憶がない。 「うん。ふいてもふいても涙がでてた。いたかったっていってたよ」  痛かった、と何故過去形なのかはわからないがやはり昨日一緒に寝ていたのは莉玖だった様だ。  莉玖に訊くと、寝ぼけてトイレに行って帰ってきたら俺が寝ていたが、如月が帰ってきたと勘違いしてそのまま一緒に寝たらしい。  あの夢の時に実際に涙が出ていて、莉玖はそれを見て涙を手で拭いたので、俺は起きても泣いていた事に気づかなかったんだろう。 「すぐにとうまじゃないってわかったけど、やまだの涙ふいてたら、なんかまたねむくなってきて、ねた…」 「そっか…でもお前、俺の事怖くなかったの?」 「はなれようとしたけど、はなしてくれなかったから……。でも次おきたらはなれてたから、じぶんのへやにかえった」 「はは…そりゃ悪かった。でもありがとな。お前のおかげで寝れた」 「いつもねれないのか?」 「まぁ、色々あってな」  その時、莉玖の腹からぐぅ…と音が聞こえた。俺が腹に視線を遣ると、彼は少し恥ずかしそうに俯いた。 「はは。朝メシの時間だもんな。……良かったら、莉玖も今日は下で食べないか?」  莉玖は「え…」と少し困った顔をしたので、すぐに自分の言葉を引っ込めた。また俺は、彼が欲しくない言葉を掛けてしまった。 「あ…悪い。俺となんか嫌だよな。でも毎日俺一人で寂しくて、莉玖が一緒に食べてくれたら嬉しいなって思ってさ。ごめん、今のは忘れろ」 「……いいよ」 「え…」 「きょうは、下でごはんたべる」  久しぶりに向かいの席に座る莉玖の姿に、ついつい顔が綻ぶ。今日は彼とそんなに会話は続かなかったが、久々に人と食べる飯は美味しくて、心が温かくなる。  無言の中、俺がトーストにベーコンエッグを乗せて食べていると、莉玖もそれを黙って真似をしているのに気づいてちょっと嬉しくなった。彼がベーコンをうまく噛み切れなくて、悪戦苦闘してる姿で隠れて笑ったのは俺だけの秘密だ。  一人で食べるより、莉玖と食べる飯はやっぱり嬉しい。

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