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第五章 愛を忘れた狼 6
莉玖が記憶を失って十日が経ったが、まだ記憶は戻らない。催眠療法で記憶を少しずつ取り戻そうとはしているが、あまりうまくはいってない様だ。
だけどあれから飯は一緒に食べるようになって、少しだけ莉玖から会話をしてくれる様になった。基本彼は如月にべったりだが、記憶を無くした当初より、俺を怖がらない様になってくれただけで進歩だ。
「おはよう莉玖。あれ? 如月いないのか?」
朝食の時間に少し遅れてダイニングの席へ着くと、如月の姿が見えない。いつも莉玖の近くにいるのに。
「おはよ…とうまはお仕事いった。夜かえってくるって」
既に朝食を食べていた莉玖は俺の方を見ずに、バターを塗ったトーストにかぶりついた。
「ふーん。莉玖、如月が夜いないなら今日は一緒に寝てやろうか? 一人で寝るの怖いだろ?」
「やまだはすぐぎゅーってするからやだ。痛いもん」
莉玖はツーンとした表情でザリザリと音を立ててバターをトーストに追加した。
「あ、そ…。如月はぎゅーしないのか?」
「とうまはおれからぎゅーするから、へいき」
「へ〜…それは仲がおよろしい事で…」
(クソ…聞くんじゃなかった……)
この日はずっと俺はやりたくもない英語と格闘中で、夕食を挟んでまた勉強を再開後、窓に雨粒が響く音で一息ついて大きく伸びをする。時計を見ると時刻は二十三時前。熱中すると時間を忘れる。雨の音がしなければ深夜までやるところだった。
頭を使いすぎて疲れた俺は、シャワーを浴びて今日は寝る事にした。最近は勉強疲れで莉玖がいなくてもなんとか寝れる。
ベッドに入ってうとうとしていると、雷の落ちる音。結構大きい音だなと思っていると、すぐに雨は激しさを増し窓を強く打ち付ける。暫くすると、ベッドサイドに置いているスマートフォンから電子音が鳴った。
登録している人間は少ししかいないから、こんな時間にかけてくる奴なんて、画面を確認しなくても分かる。
「…何だよ如月。寝るの邪魔すんな」
朝食の時に莉玖が如月に抱きついている話を思い出した俺は、最高に機嫌が悪い。
「お休みの所すみません。私、今日戻れそうになくて」
「あ、そう。お前が帰ってこなくても支障ねーよ。もう切るぞ」
「あの、莉玖様の様子見にいってくれませんか? 雷、苦手なんです」
莉玖が雷が苦手? そんなの初めて聞いた。
そういや莉玖と出会ってから、雷が鳴るのは今日が初めてかもしれない。
「別荘で雷が鳴る程の酷い雨が降ったんですが、その時莉玖様は酷く怯えてて…六歳に戻った今はもっと怖がっているかと。部屋に様子を見に行って貰えませんか。悠矢様なら、その気持ちわかるでしょうから」
通話を終えると、すぐに莉玖の部屋に行く。廊下を歩いている間も雷鳴の音はどんどん大きくなっていって、部屋のドアを開けた瞬間にもドーンとした音が響いた。ベッドを見ると、人の形にベッドカバーがこんもりと盛り上がっている。
「莉玖〜? 大丈夫か〜?」
俺の声に、もぞもぞと莉玖が顔を出す。身体は大人なのに、仕草はまるっきり子供だ。
彼と目が合うと、窓からはまた雷の光。部屋を明るい光が包み、莉玖は瞬時に耳を塞いだ。思っていたより相当怖がっている。
「何でカーテン開けてるんだ? 雷怖いなら、閉めればいいだろ」
莉玖は怖すぎてカーテンまで辿り着けなかったらしく、俺が窓の遮光カーテンを閉めた。
「莉玖、怖いなら一緒に寝よっか?」
「…ひとりで大丈夫。ひっ…」
ドーンとまた空を切り裂く様な大きな雷鳴。莉玖はまた耳を抑えてベッドへと潜り込む。段々と鳴る音が大きくなっていて、雷雲は大分近づいてきた様だ。
「り〜く。俺も雷怖いから、一緒に寝て欲しいんだけどなぁ〜」
莉玖はまたもぞもぞと出てきて俺を見る。
「……やまだもかみなり、こわいのか?」
「そうそう、すげー怖い。こんな事頼めるの、莉玖しかいねーんだ。でも、俺と寝るのやっぱり嫌?」
「痛いこと、しない?」
「……うん、もう前みたいにしない。あっまた音が鳴った」
「うわっ! 音おおきい…もういやだ…」
莉玖はビクッと身体を揺らす。
「莉玖〜。俺怖いから早くベッド入れて〜」
「ん…いいよ…」
ベッドに入ると、莉玖の身体が震えているのがわかる。少し俺と距離を開けて寝るのは、やはり俺が怖いからだろうか。
「莉玖、ぎゅーしても良い?」
「うん…」
莉玖の身体に近づくと、莉玖の顔が俺の数十センチ先に迫る。久しぶりに見た至近距離での顔は相変わらず美しくて、思わず頬を撫でた。
外からははまた大きな音がして、莉玖の目がギュッと硬く閉じられる。
「お前の耳、手で塞いでやろうか? そしたら音小さくなるから大丈夫だろ」
「でも、やまだもこわいんだろ。いみないじゃん…」
「あっ? あ〜…えーっと、俺はぎゅーしてたら音は怖くないから平気」
子供の頃は俺も雷が怖かったが、今はもう怖くない。
昔は雷が鳴るとアイマスクと耳栓をして寝ていた。だけど十歳の時に如月と寝てからはそれが無くても平気になった。
──きさらぎ、かみなり落ちるかなぁ。俺この音嫌い…落ちたらどうしよう。やっぱり耳栓欲しい…。
──大丈夫ですよ。もし落ちてもこうやって守りますから。安心して寝て下さい。雷は貴方の上には絶対に落ちませんから。
──ほんとに?
──本当に。〝雷は怖くない〟って声に出してみて下さい。
──かっ…かみなりこわくない!
──ほら、怖くなくなったでしょう?
──えー? 何もかわってないよ。
──さっき落ちたけど、平気だったでしょう?
──ほんとに? わかんなかった!
──いやウソですけどね。落ちてません。あ、今落ちました。大きいなぁ。
──うわっ! きさらぎのバカー! 雷こわいよぉ!
あいつは昔から変わらない。だけど雷の時に彼と下らない話をしていたら、いつのまにか気にならなくなった。寧ろ雷の時は如月に遠慮なく抱き着けるから結構楽しみになって…。あれ? 俺結構如月の事好きだったんだな…。
「ぎゅーしてたら、ほんとにやまだはこわくない?」
昔の思い出を反芻している俺に、莉玖は不安そうにガウンを引っ張ってきた。
「ほんとほんと。だから莉玖もうちょっとくっつかせて。痛くしねーから…」
横向きで向かい合わせになった莉玖の右耳の下に、二の腕を滑り込ませる。彼のふわっとした頭頂部が眼前に迫る。いつものシャンプーの匂い。堪らなくなって、そこに顔を埋めた。
「莉玖〜…雷は絶対この家に落ちないから平気。俺がぎゅーしてるから大丈夫」
「ん…やまだ、こっちの耳ふさいで…音、こわい」
音が遮断される様に莉玖の左耳を触れると、彼は身体をびくっと揺らした。
「ん? 莉玖どうした?」
「なんか…くすぐったい…みぎはへいきなのに…」
「そっか、お前耳感じちゃうもんな…」
「かんじる…?」
「ごめん、こっちの話。これは?」
少し触り方がやらしかったかなと反省して、もう一度塞ぐ様に触れる。だが塞いでも雷の音が鳴る度に莉玖はまだ身体をびくつかせる。
「まだ、きこえる…」
「どうしよっかな…あ、そうだ…」
莉玖の耳を塞ぎながら、彼の下唇を音が鳴る様にゆっくり吸う。ちゅうっ…と音を沢山立てて、ぴちゃぴちゃと水音を鳴らしてやった。
ドーンとまた雷鳴がしたが、莉玖は身体を揺らさず、俺を見つめている。
「やまだ、なんでくちたべるの…」
莉玖はちょっと不思議そうに俺を見た。
「耳塞いだらこの音だけするから、雷が気にならないだろ? してる時も大きい音したけどどうだった?」
「ほんと? かみなりわかんなかった…」
「だから、暫くさっきのしてたら平気」
「え〜…でもおれのくちおいしくないよ…」
ちょっと嫌がる彼の口に、またちゅっと音を立てて吸い付いた。
「莉玖の口、美味しい。雷の間、食べていい?」
「……いいけど。ん…ん…」
雷の音が気にならないように、ぴちゃぴちゃと鼓膜に沢山響く様にキスをする。基本唇だけを吸ったり舐めたりしたが、久しぶりの莉玖とのキスに興奮した俺は、莉玖の口の中にゆっくりと舌を侵入させた。だけど彼の舌はやはり動いてくれない。
(……こんな事させるのは自分でもどうかと思うけど…こんなの我慢出来ねーって…莉玖、ごめん)
「……莉玖の舌も俺と同じ様に動かせるか? そしたらもっと雷の音気にならないから。わかった?」
「舌…どうやってうごかすの?」
「じゃあ練習。舌出して…」
「ん…ん〜…んぅ…」
無防備に出された舌に吸い付いて、生き物の様に自分の舌を絡める。段々と俺の息は荒くなって、ついつい彼の頬や顎、首にも唇を這わした。
「あ…ぅ…やまだ…首、くすぐったい…」
「擽ったい? じゃあこれは?」
また首にちゅうっ…と吸い付く。れろっと舐めたり、キスマークをつけたり…久々に味わう彼の身体に俺の唇は止まらない。何も知らない彼にこんな事をする俺は、やっぱり最低。
だけど、感じる声が同じ声で、感じる身体は彼そのもの。記憶がある彼と、今の彼は何も変わらない。
「あ…ン…ふふっくすぐったい。やまだ…ん…んぅ…」
「俺、こうしてると雷怖くないからもうちょっとさせて…ん…莉玖…」
「ん…んんっ…ん…」
「莉玖…好き……お前の事、もっと食べたい…」
雷が鳴り続いている間は、莉玖とこうしていられる。
雷よ、まだ鳴り止むな。もう少し俺と莉玖をこのままでいさせてくれ。
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